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校長教頭ブログ

校長ブログ(6/28)

学林

 去る6/21(水)に高1生の「学林」の活動がありました。これは、4月の「新入生オリエンテーション」、5月の「一浄上人御法話」に引き続き行われたもので、今回は「遊行寺探訪」ということでありました。高入生は2限に、一貫生は3限に分割しての実施でした。それぞれ、まずは遊行寺御本堂で大正大学准教授、前時宗宗学林学頭の長澤昌幸先生から20分間の講義(遊行寺や時宗について)を受け、その後、事前に調べておいた遊行寺境内で「気になるところ」に足を運び、各所に設置してあるQRコードから入る説明サイトを参考に、藤嶺藤沢の「母体」である遊行寺について学ぶというミニフィールドワークを体験したのです。
 まず、長澤先生のお話ですが、短い時間ながら、生徒の皆さんが「へぇ~、そうなんだ」と思えることが随所にあり、私自身も楽しめました。また、多くの生徒が訪れた遊行寺境内のポイントは、やはり「敵御方供養塔(国指定重要史跡)」であったようです。こちらは、その説明によると「境内東門を入ってすぐ左にあります。怨親平等の碑とも呼ばれる南無阿弥陀仏の碑は、室町時代の応永23年(1416)に、上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対して反乱を起こした時、幕府は持氏を援助したため氏憲は敗れ去りました(禅秀の乱)。この乱によって両方に死傷者が多く出たので、遊行十四代太空上人は、一山の僧と近在の人々と共に敵味方両軍の傷ついた人たちを収容して治療を行うとともに、戦没者を葬り敵味方の区別なく平等に供養し、供養塔を建立してその霊を弔いました。このような、いわゆる博愛思想をあらわす塔や碑は他にもありますが、この碑はその中でも最も古く、大正15年に国の史跡に指定されています。」となっています。この利他平等の精神は、まさに時宗の教えを体現したものと言え、「赤十字」よりも古い貴重な史跡となっているのです。
 今回の学林で、高1生たちがお隣の遊行寺の「奥深さ」を体験できていたら、嬉しく思います。

校長ブログ(6/13)

三年?九年?

 「石の上にも三年」という言葉は、1度は聞いたことがあるでしょう。意味は、「(冷たい石も三年座り続ければ温かくなるから)物事は辛くとも根気よく続ければ、最後にはきっと成功するということ」です。
 私のような昭和30年代生まれの者たちは、何をするのも「忍耐」「辛抱」「我慢」などがつきまとい、「途中でやめる」のは「根性なし」と言われかねない時代でした。今で言うところの「パワハラ」は日常的なことであり、先輩からは俗に言う「武勇伝」をたびたび聞いたものです。したがって、「三年ぐらい辛抱できなくてどうする!!!」という時代だったのです。
 遊行寺四十八段下の惣門(黒門)のところの伝道掲示板には、今月の言葉として「面壁九年」が掲示されています。三年どころか、今度は九年……意味は、「達磨大師が九年間も壁に向かって坐禅を組み、ついに悟りを開いたということから、目標を達成するために、長年わき目もふらずに辛抱強く粘り抜くことのたとえ」です。そういうことではないとわかって言いますが、「三年はさておき、九年は長いなぁ……」。
 現在の中高生は、Z世代(Generation Z)と言われる世代です。その特徴は、①インターネットやスマートフォンを日常的に使用し、「デジタルネイティブ」である。②多様性への意識が高く、自分の個性を重んじる。③社会問題への関心が高く、社会貢献活動に積極的である。④お金の使い方が合理的で、節約志向が強い。⑤キャリア志向が強く、やりがいのある仕事を求めている、ということです。おそらく、「石の上にも三年」や「面壁九年」など、「何それ?」という感覚の世代でしょう。われわれ世代の生き方を否定されるようで少々残念ですが、世界が激変してゆく中で、これからの世の中を生き抜き、そして切り開いていかれるのは、きっと新たな世代「Generation Z」なのですね。「正解を探すのではなく、新しい解答を導き出す」……「Generation Z」の皆さん、頼みますよ!

校長ブログ(6/4)

応援される人

 4月5日の中学校入学式の式辞の中で、私は「応援される人になろう」と呼びかけました。それに続けて「応援される人ってどんな人でしょうか?それは、一生懸命な人、素直な人、正直な人、仲間を励ますことができる人、お互い様って思える人、などでしょう。これから皆さんは、勉強も、部活動も、大学進学もいろいろとチャレンジしていくことがあります。その時には、壁にぶつかったり、悩んだり、途中でやめたくなったり、時に困難にぶつかることと思います。そんなときに、誰かに応援されると元気が出たり、頑張ろうと思えたりするのです。だから、応援されるってとっても大切なことなのです。応援される人を自分なりに模索して、是非とも応援される人になって下さい。」と述べたのです。
 先日(6/1)、将棋の藤井聡太さん(20)が、第81期名人戦七番勝負を制し、史上最年少名人と7冠を達成しました。藤井聡太新名人については、「精神面でも成長著しい藤井竜王。強さと品格を兼ね備えた名人となった。」(読売新聞)、「今も表情にあどけなさを残す20歳。謙虚な姿勢を貫き、他者への敬意を忘れず、いつも穏やかに笑っている。」(朝日新聞)、「史上初の8冠制覇にも王手をかけたが、「まだまだ遠いもの。少しでも近づけるように頑張れたら」と謙虚に語った。」(サンスポ)と報じています。
 20歳の若者が、将棋八大タイトルのうち7つを手にしたら、自分の強さを鼻にかけたり、驕り高ぶってしまったり、周囲への敬意を忘れてしまったりということがありそうなものです。そして、強すぎるが故に「アンチ」の立場の人々の顕著な存在が認められるものですが、藤井さんにはそのような存在はないようです。それどころか、どのマスコミも「謙虚」や「品格」や「敬意」という言葉を並べて藤井聡太さんを褒めています。すなわち、藤井さんは正に「応援される人」なのです。偉ぶることなく、相手への敬意を忘れず、勝っても負けても課題を見いだしてさらなる向上を目指す……だからこそ、谷川浩司十七世名人も羽生善治九段も、そして今回のニュースを目にし耳にしたすべての人々が、藤井さんへの賞賛を惜しまないのです
 「応援される人」になるのは、難しいことかもしれません。しかし、もしかしたら「応援される人」になろうとする努力こそが、応援される要素なのかもしれません。

校長ブログ(5/23)

明歴々露堂々

 少し前のことですが、書家というお顔もお持ちの遊行七十五代他阿一浄上人(東山勉理事長)から書を頂戴しました。書かれていた言葉は「明歴々露堂々」です。読み方は「めいれきれきろどうどう」となります。読み下すと「歴々と明らかに、堂々と露(あら)わる」で、言葉上の意味は「明らかにはっきりあらわれていて、少しも覆(おお)い隠すところがない」ということです。
 学校でも、我が家でも、ウグイスがよく鳴いています。しかしながら、私はウグイスの姿を見たことがありません。ウグイスは、見えないけれど確かに存在しています。見えないことと、存在しないことは違うのです。
 満月の夜に、空が晴れていれば、良いお月様が見えますが、雲に覆われてお月様の姿が見えないことも意外に多いものです。例え雲に覆われて見えないとしても、満月は間違いなく空に出ています。満月は、見えないけれど確かに存在しているのです。
 明歴々露堂々……「世の真理と呼ばれるものはどこかに隠れているわけではなく、最初からありのままに現われていて、それに気付く心こそが大切である」ということになるそうです。
 お上人から頂いた私の「明歴々露堂々」は、鎌倉八幡前の表具屋さんに「額装」をお願いしてあります。2~3ヵ月かかるそうですが、できあがりが楽しみです。額装された暁には、校長室に飾るつもりです。その際には、皆さんどうぞ見にいらして下さい。

校長ブログ(5/10)

啐啄同時

 遊行寺四十八段惣門(黒門)のところにある「伝道掲示板」に掲示されている「今月の言葉」は、「啐啄同時」です。「啐」は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音です。「啄」は母鶏が殻を外からつつき破ることです。そして、「啐啄同時」は、禅宗で師家(しけ)と弟子とのはたらきが合致することであり、師家と弟子の呼吸が一致するときに、禅宗では悟りが得られると考えるのです。また、一般化して言うと「学ぼうとする者と教え導く者の息が合って、相通じること。」となります。
 先日、本校は4年ぶりに「学校参観週間」を実施ました。コロナ禍により2020年度から2022年度までは実施を見合わせましたので、「4年ぶり」ということになったわけです。それが理由でしょうか、通常より多くの保護者の皆様が学校にお出でになり、授業を見学されました。また、中学校および高校の入口の「受付業務」を保護者の皆様にお手伝い頂きました。PTA会長さんがおっしゃるには、受付のお手伝いをお願いしたところ、募集定員以上のお申し出があったそうです。誠にありがたいことであります。
 授業見学・授業参観をして頂いた皆様には、簡単なアンケートをお願いしました。項目は、5段階評価のものが「授業の内容」「指導の工夫」「生徒の反応」で、最後に「その他」の項目でコメントを頂きました。8割方は良い評価を頂きましたが、中には「心配」を感じさせてしまった授業もあったようです。例えば、「集中している生徒と寝ている生徒が半々で、寝ている子を少し注意して頂ければと思いました。」「想像していたより賑やかでした。先生の話を聞いているのかな-?と心配になりました。」などです。ご心配を頂いたような状況は、どうしてそのような状況になってしまったかはさておき、基本的には教員側が対処すべき問題であると考えます。大変申し訳ありませんでした。改善に努める所存です。
 一方、「良い評価」の例としては、「生徒と先生の“キャッチボール”があり、適度な余裕もあって良い授業だと思いました。」「生徒との言葉のやり取りが多く、皆が反応してとてもよいと思いました。」などがありました。やはり、「良い評価」の授業は「啐啄同時」なのです。教科によって状況や展開は違いますが、目指すところは「啐啄同時=学ぼうとする者と教え導く者の息が合って、相通じること」なのです。
 4年ぶりに実施された「学校参観週間」は、多くの保護者の方々にお出で頂いたことで、藤嶺藤沢の「啐啄同時」の度合いが測られ、今後の課題を頂きました。ありがとうございました。

校長ブログ(4/27)

禁断の扉

 ついに使ってしまいました……ChatGPTを。
「誰でも使えるAI」と言われる「生成AI」の中心に位置するChatGPTは、オープンAIという会社が2022年11月に発売しました。発売後5日でユーザー数100万人、2ヵ月で1億人を突破し、今も爆発的に普及を続けています。従来、このようなAIを操作するにはプログラミング言語が必要で、誰でも使えるというわけではありませんでした。それを一気に一般の人たちが操作できるようにしたのがChatGPTなのです。多言語処理も得意で、日本語を打ち込めば、そのまま自然な日本語で回答してくれます。また、「生成AI」とは、与えられたデータから新たなデータ(文章・画像など)を作り出すことができるというものです。
 この「驚異」を前にして、欧米各国は規制をかける動きが相次いでいます。一方、日本では、4月10日にオープンAI社のサム・アルトマンCEOが来日し、岸田首相と面会したことに関係するのかは不明ですが、今のところChatGPTを国として規制する動きはないようです。それどころか、西村経産相は「ChatGPTの経産省での活用を検討」という発言までしています。これは、公務員の負担軽減を期待してとのことです。また、先日のNHK「日曜討論」では、DX(Digital Transformation/デジタルトランスフォーメーション)に後れを取った日本の「起死回生」の手段となるかもしれないという発言もありました。例えるなら、「家電」が普及する前にいきなり「携帯電話」が普及したようなものだそうです。
 私が今回ChatGPTを使用したのは、ある文章をASAP(As Soon As Possible/大至急)で頼まれたからです。もちろん、ChatGPTの回答をそのまま使えるということはありませんでした。しかしながら、参考になると言ったらいいのか、ヒントとなると言ったらいいのかは別として、とりあえず「時短」にはなりました。「生産性に劣る」と言われる日本社会にとって、もしかしたら本当に「救世主」となるかもしれないというのが、今の感想です。
 ちなみに、「音声認識」や「文字起こし」のための「無料で使えるAIツール」に「CLOVA Note」というものがあり、試しに使いましたが、これもなかなか使えそうです。

 ここまでお読み頂きましたが、この文はChatGPTで作成しました……というのはブラックジョークです。

校長ブログ(4/17)

桜 2023 ②

 今年のこの周辺の「桜」は、そろそろ終わりを迎えています。3月中旬頃の「開花はいつ?」の話から始まり、ソメイヨシノ、ヤマザクラ、八重桜など、毎日毎日テレビの映像で各所の「桜中継」があり、また、われわれは人と会うとこの時期だけは天気の話題ではなく、桜の話題が「挨拶代わり」となっていました。私の夜のウォーキングコースにある鶴岡八幡宮参道の「段葛」は、平成の大改修から9年がたち、すべて植え替えられた桜の木はかなり大きくなり、今年の満開時には見事な「桜のトンネル」になりました。また、すべての木の下にライトアップ用ライトが装備されていますので、その効果も抜群で、夜桜見物の人々を楽しませてくれました。そして、今、段葛はツツジの満開を迎えていますが、「夜ツツジ見物」の人は皆無です。
 歌僧西行法師に次の和歌があります。
花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜のとがにはありける(西行)
この和歌で詠まれたような状況を今は懐かしくさえ思います。
 さて、桜は、開花から満開までが約1週間、満開から散るまでが約1週間ということですので、開花から散るまで約2週間となります。すなわち、桜は1年間のうちわずか2週間花を咲かせるために、残りの350日間を全力で過ごしているのです。桜花が散るとすぐに極めて多くの緑の葉が生い茂り、8月いっぱいは日の光を存分に浴び、光合成で得られた栄養分をせっせと幹や枝や根にため込み、9月以降徐々に葉を落として冬に備え、寒い冬にはその栄養分を熟成させ(非科学的記述)、ひたすら無言でじっと春を待つのです。何と健気な桜の日々の営みではありませんか。ビジネス界を始めたとして現在は「最小限の努力で最大の効果」を追求する風潮があります。しかし、かつての薬師寺貫主高田好胤師は「最小の効果のために最大の努力を惜しまない」とおっしゃっていました。桜の営みを考えると、好胤師のこの言葉を思い出すのです。
 いろいろなことにチャレンジをしている生徒の皆さん、「最小の効果のために最大の努力を惜しまない」からこそ、時として最大の効果も得られるのです。頑張りましょう!

新校長あいさつブログ

校長に就任しました

 去る3月末日まで高校教頭を務めておりました林学です。私は、4月1日付けで藤嶺学園藤沢中学校・高等学校校長に就任致しました。私は、昭和62年4月に本校に奉職し、クラス担任を27年間、高校教頭を6年間務め、このたび校長就任となりました。何分浅学非才ではありますが、誠心誠意職責を全うする所存ですので、何とぞよろしくお願い申し上げます。
 高校入学式においては、「五つ目の季節=未来という季節」の話をしました。中学入学式においては、「応援される人になろう」と呼びかけました。そして、どちらの入学式式辞も最後は同じです……「藤嶺藤沢ってこういう生徒がいる学校だ」、「藤嶺生にはこういう生徒になってほしい」という思いを「トウレイ」の頭文字に込めて披露したのです。それは、「トウレイ」の「ト」は「トップを目指す向上心」、「トウレイ」の「ウ」は「生み出すチカラ創造力」、「トウレイ」の「レ」は「礼儀正しい謙虚な心」、「トウレイ」の「イ」は「一途に頑張る勇猛精進」です。これは、私が3年間密かに温めていたもので、いつか披露する機会がないかと思っていたのです。この度校長に就任しましたので、入学式式辞の最後に盛り込んだ次第です。これから徐々に全校に広めていきたいと思っています。
 では皆様、今後ともよろしくお願い申し上げます。 

高校教頭ブログ(3/26)

桜 2023

 本日3/26(日)、日本気象協会tenki.jpには、上野恩賜公園の桜は「満開」と出ています。東京の開花宣言に比べて、鎌倉の桜は明らかに遅かったのですが、一昨日の暖かさで文字通り一気に開花しました。昨日はいつもの夜のウォーキング中に八幡宮前の段葛で「夜桜見物」ができると思って外に出たら、予報より早い雨。残念ながら、夜桜見物はお預けです……今夜は雨が上がるかなぁ、と気をもんでいるところです。ちなみに、3/23の夜にはまだ段葛での「ライトアップ」が行われていなかったことが少々気がかりです。
 藤嶺の昇降口前の桜はすでに散ってしまいました。遊行寺の桜は、昨夕の段階ではまだ見頃前……4/5の入学式にはどうなっているでしょうか。もしかしたら、四十八段の八重桜が新入生を迎えてくれるかもしれません。
 コロナ禍前も、コロナ禍でも、そしてコロナ禍が明けつつある今年も、やはり「桜」はこの時期の主役です。桜の開花状況によって、人の心も、人の行動も左右されますね。昨年のこの時期にも書いたことですが、平安時代の西暦900年代初頭に編まれた「古今和歌集」に次の和歌があります。

   世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

 これは在原業平(平安時代前期の貴族・歌人)の和歌で、この時期に人の心がいかに桜に翻弄されるかを詠んだものです。解釈は「この世の中にまったく桜がなければ、春を過ごす人の心はどんなにのどかであることでしょう。」です。(「せば~まし」=「反実仮想」=英文法の「仮定法過去」)もちろんこれは、「桜がなくなればいい」などという無粋な和歌ではなく、桜が咲いてくれるからこそ心が華やぎ、満開の桜を目にすることでその美しさを堪能できるという、桜花の素晴らしさを詠んだ和歌なのです。
 私の夜のウォーキングコースの鶴岡八幡宮前の「段葛」は、普段は夜9時になると閑散としていますが、この時期だけは夜桜見物の人の波……今夜か明日か、「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と私はつぶやくのです。

高校教頭ブログ(3/13)

東日本大震災から12年

 今年もまた「3.11」がやってきました。今年は2011年の震災から12年という年にあたります。
 東北地方太平洋沖地震によって引き起こされた東日本大震災では、震災関連死を除く死者は、約1万6,000名に達しています。亡くなった方々のその瞬間の苦しみ、そして無念さを思うと胸が痛みます。また、これほど多く亡くなった方がいるということは、その何倍もの「死別経験者」が生まれてしまったということになります。「別れを言えなかった永久の別れ」は、その悲嘆が癒えるまでに相当な時間が必要です。いや、悲嘆が癒えることはないのかもしれません。
 仏教のしきたりでは、人が亡くなってから丸1年の命日を「一周忌」、丸2年を「三回忌」、丸6年を「七回忌」、丸12年を「十三回忌」としています。したがって、今年は「東日本大震災で亡くなった方々」の「十三回忌」です。命日あるいは命日の近くで残された近親者たちは、菩提寺にお願いをして「年忌法要」を執り行います。年忌法要は「弔い」の大きな部分を占めています。「弔い」とは、人の死を悼み、葬送を執り行い、そして引き続く仏事に携わっていくことです。そして、この「弔い」は、「人が集まって」執り行うことにより哀しみを共有することで、残された者たちが「死者とともにある」という気持ちや、「死者とともに生きる」という感情となって返ってくるのです。「年忌法要」は、単なる儀式やしきたりにとどまらず、「グリーフケア」の役割を担っているのです。おそらくこの1ヵ月には、被災3県(岩手・宮城・福島)をはじめとして、各地で十三回忌が営まれ、死者を悼むとともに自らの心の安寧を得た方々がいたことでしょう。
 しかしながら、冒頭で述べたように、「別れを言えなかった死別」が癒えるには時間がかかります。したがって、十三回忌を迎えてもなお死別当初の喪失感が癒えず、思慕と想起を繰り返し、「癒やしと再生」に至らない状況の方々がたくさんいらっしゃることも、我々は心に留めておかなければなりません。