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高校教頭ブログ(10/22)

他力本願

 10月20日(木)の「2022年プロ野球ドラフト会議」にて、本校卒業生の矢沢宏太君(日本体育大学)が、北海道日本ハムファイターズから1位指名を受けました。4年前の高校3年のドラフト会議では「指名漏れ」を経験し、そのことを糧に雌伏4年、見事に「1位指名」の栄誉を獲得したのです。もちろん「1位指名」はゴールではなくスタートとなります。今後の活躍を心から祈ります。ちなみに、今年「プロ志望届」を提出した大学生は187人、そのうちの7人が「1位指名」を受け、その7人を含めて27人しか指名されていません(育成を除く)。このことからも矢沢君がいかに高く評価されたかがわかります。
 さて、この4年間の矢沢君の努力は「他力本願であった」と言ったら違和感がありますか?「他力本願」は、「自己の主体性を放棄して他人の力だけを当てにしてものごとを成し遂げようとする依存主義・頼他主義のこと」として用いられることがありますが、これは誤解であり誤用なのです。浄土系宗派(浄土宗・浄土真宗・時宗)では、各宗派で多少考え方に差はありますが、「他力」とは「阿弥陀仏の(本願)力」のことであり、「人にさとりをを求めさせる力も、さとりを開いた人が迷っている人びとを教え導く力も、他力による」のです。すなわち、浄土系宗派の立場で言えば、矢沢君が自らに厳しい目標を課し、それに向けてたゆまぬ努力をし、そして「1位指名」を獲得したのは、すべて「阿弥陀仏の(本願)力=他力本願」のお蔭であったのです。
 さまざまな目標に向けて、さまざまな努力を続けている藤嶺生のみなさんは、「阿弥陀仏の本願力=他力本願」に見守られ、そして包まれた中にいることを信じ、安心して目標突破への努力を続けていきましょう!

中学教頭ブログ(10/21)

 10月14日は鉄道の日でした。150年前、日本で最初の鉄道が新橋~横浜(桜木町)間を53分の時間をかけて走りました。私も鉄道には興味がありますが、英語科の押尾先生には敵いません。鉄道研究部の顧問の経験もありますが、私自身は「乗り鉄」だと思っています。先頭車両で線路を眺めながら乗車を楽しむ喜びは今でも感じています。

 私が住んでいる横浜市泉区を走る相模鉄道「いずみの線」では通勤時間帯ですら、座席に座れなかったことはありません。何時乗ってもガラガラです。周辺駐車場の一日の最大料金は驚きの500円でした。ところが、夜遅くに下車することすら躊躇してしまう「ゆめが丘駅」周辺の開発が現在急ピッチで進んでいるのです。数年後には辻堂のテラスモールと同じような商業施設ができる予定です。「いずみの線」の車両が満席になる日が近づいているのです。

 鉄道と言えば、自分の身体が動く間にリニア新幹線に乗ってみたいと思っています。東京~名古屋間は2027年に、名古屋~新大阪間が2037年の開業を目指しているそうですが、実現は厳しそうです。40分間で東京~名古屋間を走り抜ける予定ですから、150年前の新橋~横浜間よりも早く到着することになります。技術の進歩には驚かされるばかりです。

 相模鉄道の車両の色はネイビーブルーに統一されつつあります。JR線・東急線への乗り入れと併せてイメージチェンジ図っています。都心を走る相鉄車両は押尾先生曰く、人気が高いそうです。数年後に「ゆめが丘駅」を走り抜ける車両は、イメージが大きく変わっているはずです。ご期待ください。

高校教頭ブログ(10/14)

いよいよ

 プロ野球(NPB)ではCSファイナルステージがいよいよ佳境となっています。並行して、複数の球団から10/20(木)のドラフト会議での「1位指名選手」が公表されています。ご存知のように、北海道日本ハムファイターズは「1位指名は日本体育大学矢沢宏太投手」と発表しました。実は、日本ハムは4年前、矢沢君が藤嶺藤沢高校3年生の時も“指名濃厚”であったのですが、残念ながら“指名漏れ”になってしまった経緯があるのです。
 日本ハムの矢沢1位指名の公表について、神奈川新聞では次のように報道しています(共同通信配信)。

「日本ハム、矢沢の1位指名公表」
 日本ハムは11日、投打の二刀流で注目される日体大の矢沢宏太投手を20日のドラフト会議で1位指名すると公表した。稲葉篤紀ゼネラルマネジャー(GM)が千葉県鎌ケ谷市の球団施設でスカウト会議後に「走攻守投と各部門でポテンシャルが高い。球団の方針であるナンバーワン、オンリーワンの選手を是非獲得したい」と語った。1位が競合した場合は新庄剛志監督が抽選に臨む予定。
 矢沢は首都大学リーグで投手、外野手、指名打者で1度ずつベストナインに輝き、中止になった今年3月の台湾戦ではプロに交じって日本代表に選出された左投げ左打ちの逸材。

 いよいよ20日(木)がドラフト会議です。矢沢君が1位指名を受ける瞬間を目撃しましょう!

 最後に話題をもう1つ……ドラフト会議翌日10/21(金)~30日(日)まで「そごう美術館」にて、「第35回神奈川書家三十人展特別記念展 ー神奈川の書 すべてを魅せる百人ー」が開かれます。100人の出品書家の中に「東山右徹」という名前があります。こちらは、藤嶺学園理事長東山勉先生=遊行七十五代他阿一浄上人です。どのような書を書かれたのか、お時間があったら是非お出かけになってご覧下さい。

中学教頭ブログ(10/12)

三遊亭円楽さん、アントニオ猪木さん。昭和・平成の時代を生き抜いた鉄人達が相次いで病に倒れました。言葉を失いました。そして、横浜DeNAベイスターズのクライマックスシリーズ1stステージ敗退。追い打ちをかけて、悲しみと悔しさが込み上げてくる10月となってしまいました。

特に円楽さんが亡くなったのを知ったときは、スマートフォンを見ながらぼう然と立ち尽くしてしまいました。小学校卒業時に、クラスでのサヨナラパーティーで大喜利の真似事をやったのを今でも鮮明に覚えています。各人が家から座布団を持ち寄って、テレビ番組同様の争奪戦が繰りひろげられました。私はその当時の司会を務めていた三波伸介さん(てんぷくトリオ)の役を担っていました。それほど、こども達にも人気を博していた番組だったと記憶しています。

円楽さんが楽太郎の名前で「笑点」のメンバーに加わったのは1977年(昭和52年)。私が高校2年生の時でした。それから、45年間にわたって番組を支えてきた功績はとても大きかったと言わざるを得ません。27歳の若さでメンバーに抜擢されたわけですから、誰からも認められていた逸材だったにちがいありません。

女性とのスキャンダルが明るみとなり、記者会見する羽目となった円楽さんが、会見でも笑いをとっていたことを覚えています。謎かけです。「今回の騒動とかけて、東京湾を出て行く船と解く。その心は、後悔(航海)の真っ最中。」謝罪のための会見が、報道陣を巻き込んでみんなを笑いの渦に巻き込んでいた人柄には恐れ入りました。

11月2日(水)は藤嶺祭の代休となります。久しぶりに「横浜にぎわい座」を訪れ、落語を聴きながら歌丸さん、円楽さんを偲びたいと思います。

高校教頭ブログ(10/6)

無常の風

 去る10月1日午前7時40分にアントニオ猪木(猪木寛至)氏が亡くなりました。伝えられていた病状からすると、この瞬間が訪れるのは時間の問題であったのかもしれません。実は、私としては猪木氏の死を「避けて通ろう」としましたが、やはり若い頃の私に大いに影響を与えた存在に対して失礼と思いましたので、この場をお借りして私の猪木物語を語らせて頂きます。
 質問です。次の書名中の〇には何のひらがなが入るでしょう?……『燃え〇闘魂 アントニオ猪木自伝』(東京スポーツ新聞社)……猪木を経験した者はこの質問に間違えることはありません。これが、猪木を語る上での大前提と思うのです。 
 私の高校生時代(40年以上前⁈)「尊敬する人物は?」と問われれば、迷いなく「猪木寛至」と答えていました。そして、高校時代に自分を好きになれず悶々とする中、「猪木のようになりたい」と半分本気で思っていました。(「半分」と言わなければならないのは、中高の先輩に「本気で猪木のごとく生きていた人」がいたからです。)
 当時の日本のプロレス界は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木が人気を二分していましたが、「馬場ファン」はいても「猪木ファン」はいませんでした。その代わり、「猪木信者」あるいは「猪木に傾倒する者たち」がいたのです。すなわち、猪木の存在は、多くの人々にとって「宗教」のようなものだったと言っていいでしょう。彼らは、自分の夢と理想と未来を猪木という存在に投影し、また託してもいたのです。
 猪木は横浜市立寺尾中学校2年生のときに、祖父らとともにブラジルに移民として移住するために横浜港を発つのですが、そのお祖父さんが航海の途中で亡くなり,その亡骸を海に流すという大変悲しい経験をするのです。ブラジルに着いてからは、あてがわれた荒野を耕し、コーヒーの栽培をするのですが、貧しい生活は続いたそうです。日本への帰還については割愛しますが、猪木という人の原点は「ブラジル」にあるのです。
 プロレスラーとして一流になりつつあったとき、あの「猪木vsアリ」を実現させ、その後、異種格闘技戦を重ね、その集大成であり、格闘家猪木全盛期の闘いが「猪木vsウィリー・ウィリアムス(1980年2月)」でした。私は、今でも猪木の異種格闘技戦の中で「最も危険な戦い」であったと確信しています。また、1976年12月のパキスタン最大の都市カラチでの「パキスタンの英雄アクラム・ペールワン戦」と1978年11月の欧州遠征中の「シュツットガルトの惨劇(ローラン(ド)・ボック戦)」は、今も語り継がれる激しい闘いでありました。
 過激な闘いを続ける猪木のもとには、次第に「真の強さ」を求める者たちが集まっていきました。藤原喜明、佐山聡、前田日明、高田延彦、船木誠勝……後の「UWF戦士」たちです。猪木の生き様を目の当たりにした彼らは、UWF、新生UWFと歩みを進め、その後、佐山のシューティング、前田のリングス、髙田のUWFインター、船木のパンクラスに枝分かれしていきますが、その先にこそ「総合格闘技」という新たなジャンルが花開いたのです。(UFCについてはここでは触れません。)
 猪木が求める道に共鳴した2人=作家村松友視氏と『週刊ファイト』編集長井上義啓氏も忘れてはなりません。村松氏は『私プロレスの味方です』『当然プロレスの味方です』、さらに『ファイター 評伝アントニオ猪木』を著し、猪木信者の「拠り所」となりました。また、井上氏は「猪木傾倒者」の代表格であり、猪木信者たちは「駅売り」の『週刊ファイト』を毎週むさぼるように読んだのです。
 以上が私の猪木のすべてです。その後の猪木については、最期まで「プロレス的生き方」をしていたのであると理解していますが、私の高校時代の猪木の存在があまりに大きすぎたため、猪木の後半生には気持ち的に乗り切れない自分がいたのです。
 無常の風は時を選ばず……猪木寛至氏の往生安楽を心からお祈り申し上げます。 

中学教頭ブログ(9/30)

 9月22日(木)、3年ぶりに各学年に分かれて体験学習が行われました。3年生は企業や商業施設での職業体験。2年生は東京上野での文化体験。1年生は横浜エリアで各施設を回る自主研修が行われました。

 私は2年生に同行し、午前中は東京都美術館へ。午後からは鈴本演芸場にて落語を中心とした話芸を鑑賞させていただきました。中学校時代の美術の成績はいつも評定が2。芸術的な才能が全くない私でしたが、「ボストン美術館展」は結構楽しめました。

 昼食はあの有名な上野精養軒でハヤシライスを食べたかったのですが、15分程度しか時間がなくなってしまい、コメダ珈琲でアイスコーヒーとサンドイッチを大急ぎでいただきました。生徒たちにはせっかく上野へ行くのだから、マックやKFCでの食事は避け、「せっかくグルメ」を食するように促しました。多くの生徒たちは、天丼やとんかつ、そしてステーキなどの老舗の味を堪能したようです。中学生にとっては1,800円の天丼は贅沢だったのかもしれませんが。

 多くの他の学校も上野周辺で課外活動を行っていました。鈴本演芸場並びのイタリアンレストラン「サイゼリヤ」から10数名の中学生が食事を終えて出てきました。ある男子生徒がレシートを見ながら叫んでいました。「サイゼリヤって、結構高いなぁ!」。思わず、苦笑いしてしまいました。食べ過ぎて1,000円程度使ってしまったようです。

 保護者の方にはご負担をおかけしましたが、本物の日本文化を体験させてあげることを今回の研修テーマとしました。鈴本演芸場での噺家さんたちの話芸には、初めて寄席を体験した2年生たちが圧倒されていました。3時間に及んだ相撲観戦もあっという間だったようです。今回の行事を通して、「本物のすごさ」を教えてあげられたような気がします。

高校教頭ブログ(9/29)

ブルペンキャッチャー

先日、ネットを検索しましたら以下のような記録がありました。

第53回秋季関東高校野球大会(茨城県)
1回戦 藤嶺藤沢(神奈川2位)vs吉井(群馬2位)
平成12年10月28日 ひたちなか市民球場
吉井 000 000 010 =1
藤嶺 000 000 40X =4
[吉] 井上-竹垣
[藤] 深澤-柳川
[本]
[三] 長谷川(藤)
[二] 小金沢(吉)佐々木(藤)
 藤嶺は7回、佐々木秋徳の適時二塁打で先制し、その後も長谷川健太の三塁打などで4点を奪った。エース・深澤季生は吉井の反撃を1点に抑え、被安打4、無四球完投。藤嶺藤沢は関東大会初勝利。

 ここに出てくる深澤季生氏は平成14年3月に本校を卒業し、専修大学に進学、BCリーグなどを経て、現在はDeNAベイスターズのブルペンキャッチャーをしています。今でも覚えていますが、2年秋の深澤氏は、直球とスライダーのキレが抜群で、コントロールも非常によかったです。惜しくも秋季神奈川県大会優勝は逃しましたが、「エースで4番」として関東大会に出場し、チームは貴重な1勝を挙げ、あと1歩で「春の甲子園出場」となっていたのです。
 さて、その深澤氏を特集した記事が『週刊ベースボール』10月3日号に出ているようです。興味のある方はご一読をしてみて下さい。

*ブルペンキャッチャーとは、ブルペンで投手の球を受ける捕手のこと。役割から「壁」と比喩される。試合中はベンチではなくブルペンに待機し投手のウォーミングアップの相手を務める。 

中学教頭ブログ(9/21)

台風シーズンの到来です。河川の氾濫や土砂崩れによる被害が心配されます。台風が通り過ぎた後も用心しなければならないことがあります。それは道路に散乱している落下物です。その落下物を踏みつけて起こるタイヤのパンク件数が台風の通過後に増加するそうです。

私が現在乗っている車は購入して6年が過ぎましたが、今までパンクのトラブルに遭遇したことはありませんでした。ところが、つい先日タイヤがパンクしていることに気づき、途方に暮れてしまいました。今どきの車にはスペアタイヤが積まれていないことを初めて知りました。「走ればどんな車でもOK」という精神がトラブル発生時には問題を大きくしてしまいます。「トリセツ」など読む余裕もありません。

車のタイヤは完全に空気が抜けてしまい、走れる状態ではありません。困り果て、藤沢橋の近くにあるガソリンスタンドに電話をかけてみました。すると、すぐにスタッフの方が駆けつけてくださいました。パンクしたタイヤに空気を注入してもらい、空気圧を減らしながらガソリンスタンドまで辿り着くことができました。お忙しい中、対応していただいた従業員の方には御礼の申しようもございません。「ありがとうございました」

余談ですが、パンクは和製英語です。puncture(穴をあける)を短くした造語なのです。The tire has a punk.と言うと、「タイヤにはパンクロック的な雰囲気があります」という意味になってしまいます。正しくは、The car has a flat tire.という表現になります。ご注意ください。

高校教頭ブログ(9/16)

月清し

 今年の十五夜(中秋の名月)は満月にもあたり、9/10(土)がその日(旧暦8月15日)でした。私は、土曜日は通常18時頃学校を出て東に向かって帰宅します。9/10は天気良し、十五夜満月の登り始めが絶対に見られると、わくわくしながら学校を出ました。果たして……「絶景ポイント」に差しかかっても見えない……次の絶景ポイントでも見えない……ん?と思っていたら、やや南東方向から月が昇り始めていて、結局家に着くまでにチラッと3回見えただけでしたが、登り始めの大きな黄色味のかかったすごい満月を見ることができました。
 俳聖松尾芭蕉は、元禄2年(1689年)の3月27日、弟子の曾良を伴い『おくのほそ道』の旅に出ます。下野・陸奥・出羽・越後・加賀などを巡り、元禄2年8月14日(旧暦)に越前敦賀に入ります。敦賀気比神宮に参拝した松尾芭蕉は、時宗二祖真教上人の「お砂持ち」の遺徳を偲んで「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んだのです。日付から見ると、これは中秋の名月の前日に当たります。
 さて、「お砂持ち」とは何でしょう?これは、「遊行のお砂持ち」と呼ばれ、鎌倉時代の正安3年(1301年)に、遊行二祖他阿真教上人が越前国に遊行した際、氣比社(のちの氣比神宮)の参道がぬかるみ民衆が難渋しているのを見て、自ら砂を運び修繕したという故事なのです。この故事にならって、現在でも遊行上人の交代時にはお砂持ちの神事が行われます。遊行七十五代他阿一浄上人のお砂持ちは、令和5年5月14日に予定されています。

高校教頭ブログ(9/12)

いよいよ

 9月も半ばを迎えた高校3年生にとっては、いよいよ大学入試が近づいてきたと感じていることでしょう。いわゆる「年内入試」のうち、「総合型選抜」では、出願がすでに始まっている大学もあります。また、「学校推薦型選抜」では、公募制と指定校制がありますが、まもなく学内審査が始まります。そして、主に「一般選抜」を希望する生徒が受ける「大学入学共通テスト」の出願は9/26から始まります(現役生は学校から一括出願)。
 「年内入試」(総合型選抜と学校推薦型選抜)は、従来型で筆記試験中心の一般選抜(一般入試)が1~3月にあるのに対し、9~12月に実施され、年内に合否が出ることが多いものです。2021年度の大学入学者約61万5千人のうち、総合型は約7万7千人(12.7%)、推薦は約23万1千人(37.6%)となり、合計で初めて半数を超えたとのことです。大学側の「年内入試で入学者を囲い込む」流れと、受験生側の「一発勝負の一般入試より、早めに合格できる年内入試を選ぶ」流れが合わさり、「年内入試入学者」の割合は増えていくものと思われます。
 しかしながら、最後までモチベーションの炎を絶やさずに第一志望合格を目指す「一般選抜」はやはり捨てがたいと思うのです。受験までのその道のりにおいて、さまざまな力が身につき、そして合格したときの達成感はまた格別なものとなります。
 いずれにしても、とにもかくにも、大学進学を目指す藤嶺生の健闘を祈っています。