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高校教頭ブログ(12/26)

佳き新年をお迎えください

「FIFAワールドカップカタール2022」は、アルゼンチンの優勝で幕を閉じました。日本はベスト16でしたが、ドイツとスペインがいるグループステージを1位で通過し、その戦い振りとともに、大いに盛り上がりました。
 W杯の期間中、地上波テレビ各局は、それぞれの「解説者」がニュースや報道番組に出演していました。テレビ朝日は、岡田武史氏と内田篤人氏の2名でした。決勝トーナメント1回戦を前にして、報道ステーション大越健介キャスターが「(日本が)クロアチア、その先のブラジルに互角に渡り合える景色が見えてきた気がする」という主旨の発言をすると、岡田氏は「大越さん、そんな先のことを考えていてはダメですよ。まず目の前のことを精一杯やる。人生ってそうでしょ?先のことばっかり考えていてはろくなことはないのだから、まずは次のクロアチアに100%集中しましょう。」と返したのです。岡田氏の「哲学」が感じられる「見応えのある」場面でした。
 一方の内田篤人氏については、私はほとんど何も知らなかったのですが、そのコメントや話し方に興味を持ち、Wikipediaで調べてみると「日本代表では、アルベルト・ザッケローニ監督在任時に長友佑都と両翼のサイドバックを形成し、一時代を築いた。」と出ていました。そして、Wikipediaをさらに見ていくと、「エピソード」の項目に「2013年、ラジオで知った吉田拓郎の曲を聴き込んでいて、吉田拓郎からCDを大量にプレゼントされた。一番好きな楽曲は「外は白い雪の夜」という。」と出ているではありませんか!私も以前は吉田拓郎の楽曲が大好きでした。そして、「外は白い雪の夜」(松本隆作詞,吉田拓郎作曲)は名曲(男女の別れの場面を描いた曲です)であると思っています。いや~、内田篤人氏と私の感性には共通点があるということでしょうか⁈⁈⁈……ちょっと嬉しい情報でありました。
 さて、今年もいよいよ押し詰まってきました。来年の干支は「癸卯(みずのとう)」です。癸卯とは、恵みの雨によって草木が生い茂り地面を覆う状態を示し、またうさぎは勢いよく飛び跳ね、多産で成長が早く繁栄の象徴でもあります。新たな年が、皆さんの飛躍と繁栄の一年となりますよう、また「四大常安 禍変為福 家内安穏 諸願成就」の1年になりますようお祈りして、年内最終のブログとします。
 皆様佳き新年をお迎えください。

中学教頭ブログ(12/25)

 明治安田生命保険が2022年生まれの「子供の名前ランキング」を発表しました。男の子の名前のベスト3は、蒼(あおい)くん、凪(なぎ)くん、蓮(れん)くん、となったそうです。漢字一文字の名前が流行のようです。漢字で自分の名前が書けるようになるのは一体何歳になるのでしょうか。
 年賀状の宛名を書くときに、いつも文字のバランスに慎重になるのが、漢字二文字の氏名です。「林一」(はやし はじめ)と書く叔父がいます。いつも時間をかけて文字バランスを考えてしまいます。とても難しいのです。ちなみに、高校教頭も難しい文字配列です。現神奈川県警本部長と同姓同名で「林学」(はやし まなぶ)と書きます。かっこいいですよね。
 人生100年時代がやってくるわけですが、80年後を想像すると「あおい」じいちゃん、とか「なぎ」おじいさんと呼ばれても違和感のない時代になっているのでしょう。太郎くんや健作くんのような名前が命名される時代は終わってしまったような気がします。
 私の妻の名前は「さゆり」といいます。吉永小百合さんに代表されるように、ほとんどの人は「小百合」と書きます。ところが、妻の名前は「小百里」となります。おそらく、ご両親が姓名判断などを研究して画数にこだわった結果、このような漢字となったのでしょう。頻繁に漢字が間違った郵便物が届くたびに愚痴をこぼしています。
 年賀状を書く時期となりました。お世話になった方々への、また懐かしい友人たちへの新年のご挨拶です。相手のお名前を拝見しながら、一文字一文字に込められた思いを想像してみると楽しいかもしれません。
 今年も残りわずかとなりました。一年間お世話になりました。皆様、よいお年をお迎えください。

高校教頭ブログ(12/18)

新宮

 もう1ヵ月以上前のことになりますが、本校中学3年生は「熊野研修旅行」に出かけ、私は引率教員として随行しました。その旅行の最後の訪問地は、和歌山県新宮市の熊野速玉(はやたま)大社です。速玉大社参拝後、新宮駅より「南紀6号」という列車に乗車して一路名古屋を目指します。
 新宮は、江戸時代には紀州藩家老水野家が治めていました。その居城(丹鶴城)跡は、「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定されているそうです。
 さて、私は鎌倉市西御門というところに住んでいますが、拙寺の裏には「高松寺(こうしょうじ)址」があります。不勉強ゆえどのような経緯であったのかはわかりませんが、この高松寺は新宮水野家の菩提寺であったのです。したがって、例えば、明治35年の「八甲田雪中行軍遭難事件」で遭難死した水野家嫡男水野忠宜(みずのただよし)の本籍は高松寺(鎌倉市西御門1-38)であり、忠宜の葬儀は2月23日に新宮市の本広寺で営まれ、その後鎌倉の高松寺に埋葬されたのです。
 高松寺は、関東大震災を機に宮城県に移り、拙寺の裏は「高松寺址」となってしまいましたが、これまで「熊野研修旅行」を4回引率したそのたびに新宮との不思議な縁を感じています。また、もうずいぶん前に亡くなった父方の祖母の実家は紀州藩家臣であったことも「巡り合わせ」の一つと感じる次第です。いつの日か新宮市内を巡り、丹鶴城址を訪れたり、水野家ゆかりの地を巡りたいと思うのであります。

中学教頭ブログ(12/16)

国際クルーズ船の運航が12月15日、約3年ぶりに横浜港から再開されました。日本船籍のクルーズ客船には「飛鳥Ⅱ」「にっぽん丸」「ぱしふぃっくびいなす」があります。「ぱしふいっくびいなす」は本校の100周年記念行事の際にお世話になった客船です。横浜港停泊中の船内で記念式典を挙行し、その後在校生、保護者、卒業生などを含め総勢約450名で2泊3日の「熊野古道記念クルーズ」へと出航しました。

その「ぱしふぃっくびいなす」が、12月13日に最後となる横浜港を出港しました。1月4日の国内クルーズをもって引退するのです。1998年に就航した客船が、わずか24年で引退に追い込まれてしまったのです。コロナ感染が拡大した2020年2月に運航を中止。今年の3月に国内での運航を再開したものの、乗客数が半減。客船事業の継続が困難になったそうです。

大型客船と言っても、所詮「船」ですから、かなり揺れます。100周年記念クルーズでは新宮港へ向かう途中で夕食タイム。船酔いに苦しんで豪華ディナーを諦める方が続出しました。夕食後に行われた本校OBの能楽師、山井綱雄さんによる「能楽入門」イベントもご本人が船酔いでダウン。お弟子さんにすべてを委ねる事態となりました。

熊野本宮大社では故安倍晋三元首相と遭遇。参加者の方々とハイタッチを交わす光景も見られました。「ぱしふぃっくびいなす」船上では、ご乗船いただいた他阿真円上人による船上賦算が行われました。東日本大震災によって犠牲となられた方々への哀悼の意が込められました。今となっては懐かしい思い出ばかりです。

私が退職するときは、「ぱしふぃっくびいなす」に揺られながらのんびりと船旅を楽しむ計画でした。私よりも早く引退してしまいました。残念です。お世話になった「ぱしふぃっくびいなす」関係者の皆様には厚く御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

中学教頭ブログ(12/9)

俳優の渡辺徹さんが61歳の若さで亡くなりました。同じ年齢である私には、もの凄くショッキングな知らせでした。体調不良を訴えてから、わずか8日後に他界してしまったのですから、ご家族にとっては悲しむ間もない出来事だったに違いありません。

しかしながら、家族葬を終えての記者会見では、妻の榊原郁恵さんと息子さんが笑顔で心境を語っていました。その笑顔が逆に痛々しく感じられ、胸に熱いものが込み上げてきました。

私にとっては他人事ではありません。60歳を過ぎてから、腹痛に襲われる機会が数倍増えました。心配になって、大腸の内視鏡検査をやってみても、特に異状は認められません。医師からは、ストレス性の過敏性腸症候群という診断が下っています。自分自身では、そんなに職場でストレスは感じていないつもりなのですが、無意識の中で苦しんでいるのかも知れません。

今日、学校現場でも「働き方改革」を推進しなければなりませんし、「パワーハラスメント」を慎まねばならないのです。それらが、ストレスの要因になっている可能性は十分にあります。教員志望者も年々減っています。やる気のある、気合いの入った先生を採用するのがかなり難しい状況です。これからの学校がどのようになってしまうかを憂う日々が続いています。

私にとって、そんなに多くの時間は残されていません。できる限りのことをやり尽くして引退したいと考えています。それまでは、自分の体調を気遣いながら、ストレスを感じない日々を過ごせればと思います。皆様のご協力を切にお願いする次第です。

最後になってしまいましたが、渡辺徹さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

高校教頭ブログ(12/4)

風流踊

 去る11/30にあるニュース報道がありました。それは、「各地の盆踊りなど“風流踊” ユネスコ無形文化遺産に登録決定」というものでした。すなわち、ユネスコは、日本各地で伝承されてきた踊りなど、お囃子に合わせて踊る日本の民俗芸能「風流踊」を無形文化遺産に登録することを決めたのです。登録が決まった「風流踊」は24都府県の合わせて41件の伝統行事だそうです。
「風流踊」のリストの中に、「跡部の踊り念仏」というものがあります。これは、胸前につけた鉦(カネの一種)を打ち鳴らし念仏和讃を唱えながら、太鼓方の音頭にあわせてその周囲をまわって跳ね踊り、恍惚無我の境地にひたるというものです。
「踊り念仏」は、弘安2年(1279)、時宗の開祖一遍上人が信州佐久郡伴野庄(ともののしょう)(佐久市野沢)を訪れ、小田切の里(佐久市臼田)で初めて行ったと言われます。その後、佐久各地へ普及し、江戸時代には、一帯の村々でも行われ、仏事信仰と芸能が融合した庶民の楽しみとなっていたようです。戦前は、跡部に近い平井、日向の両地区でも踊り念仏がまだ残っていたようですが、現在まで受け継がれているのは跡部のみとなっています。
「跡部の踊り念仏」は、西方寺(浄土宗)本堂内の「道場」と呼ばれる場所で行われます。踊り手8人、太鼓方1人の計9人が一組となり、低頭し一礼して「南無阿弥陀仏」と唱えながら道場へ入ります。先頭に立つのは「讃しき」と呼ぶ音頭取りで、続いて鉦を胸前につけ撞木(しゅもく)を手に持った踊り手が入っていきます。まず「南無阿弥陀仏」を唱える平念仏があり、これが終わると全員が太鼓の音頭にしたがって鉦を打ち鳴らしながら、踊躍歓喜の乱舞を行います。その後、踊りは緩やかなテンポとなって再び静かな所作に戻り、道場を出て、次の組と交替します。すべての組が踊り念仏を終えると、知恵団子が配られ、皆で踊り念仏の福を分かち合うのです。
 ちなみに、3年前の「二祖真教上人七百年御遠忌」では、遊行寺本堂で「跡部の踊り念仏」が披露されました。

高校教頭ブログ(11/24)

「家事を手伝うとサッカーがうまくなる」!?

 いよいよFIFAワールドカップカタール大会が開幕しました。中東で開催される初めてのW杯ということでも注目を集めています。どんな戦いが繰り広げられるのか、日本代表チームは予選リーグを突破できるのか、4週間にわたるスポーツの一大イベントに注目です。
 さて、最近のNPBプロ野球と藤嶺藤沢の「接点」は、何と言っても矢澤君ですね。では、今回のFIFAワールドカップと藤嶺藤沢の「接点」はどうだろう……と思っていたらありました!今回の日本代表に背番号14をつけている伊東純也というMFがいます。伊藤選手は、横須賀市立鴨居中学校(横須賀シーガルズジュニアユース)から神奈川県立逗葉高等学校(サッカー部)に進学しました。その後、複数の大学から推薦入学のオファーがあり、2011年に神奈川大学へ進学したのです。そして、神奈川大学サッカー部監督は、藤嶺藤沢サッカー部出身の大森酉三郎(おおもりゆうざぶろう)氏なのです。すなわち、日本代表MF伊東純也選手は、大学時代に本校サッカー部出身の大森酉三郎氏の薫陶を受けたということになるのです。意外な「接点」があったということです。
 「大森酉三郎」をネットで検索すると、「地域活動は最高のトレーニング!」「築50年の団地で育む「未来社会で生きる力」「-団地で共同生活するサッカー部のユニークな取り組み-」「家事を手伝うとサッカーがうまくなる」「京セラ、銀行、財閥系…大学2部リーグ最下位の部員を一流企業に入れる監督のすごいSDGs力」などのユニークな言葉が並んでいます。例えば、「家事を手伝うとサッカーがうまくなる」では、「ジュニア年代から“ライフスキル”を向上させることをお父さんお母さんにお願いしています。ライフスキルとは、日常のさまざまな問題や要求に対処する能力のことです。」とあり、「ピッチ外で安定した生活ができている選手は、ピッチ内でも安定したプレーができている傾向にあります。」と述べています。そして、「木に例えると、根の部分がライフスキルで、そこを強化しなければ幹は太くなりませんし、ということは、いつまでも花は咲かないと思っています。」と大森氏は考えているのです。高校生の皆さんにとって、また、保護者の方々にとって、示唆に富んだ言葉であると思います。
 

中学教頭ブログ(10/17)

 KFCのチキンは1年に1度程度は食べますが、たまに食べるととても美味しくいただけます。KFCの「サンド商品」の名称が「バーガー」に変わったという話が話題となっています。米国ではビーフを使った商品のみを「バーガー」と呼ぶため、今までKFCの商品は「サンド」というネーミングを貫きました。しかし、SNS上では「サンド」という名称では検索されないため、経営戦略の一つとして商品名を変更したようです。その甲斐あって、売り上げはかなり伸びたそうです。

 本校の校名も1996年に変わっていたことをご存知でしょうか。中学校が設立される前でしたから、校名は「藤沢高等学校」でした。藤沢本町駅の近くに、その当時「県立藤沢高等学校」がありました。ですから、本校を「私立藤沢高等学校」と呼んで、区別されることが多くありました。とても紛らわしいので、校名に法人名である「藤嶺学園」を冠につけたわけです。それ以来、短縮した呼び名が「藤嶺藤沢」となったのです。その後、2001年に中学校が開校し、学校改革が大きく前進していきます。

 創立100周年の記念事業の1つに、「自習室」の開設がありました。濱谷前校長の「生徒たちが落ち着いて学習できる環境を整備したい。」という思いから設置されたものです。「自習室」という名前では味気ないということで、名称を考えるように私に指示があったのです。責任重大でした。

 やはり、「ひらがな」ではなく「カタカナ」になるのが世の中の流れでした。英語科の先生方を中心に、外国人教師の意見を取り入れて決定した名称が「Tohrei Fujisawa Academic Lounge」でした。頭文字をとって、「TFAL」となったのです。調理器具メーカーに「T-fal」という会社がありますので少し抵抗がありましたが、本校の自習室は「ティーファル」で、調理器具は「ティファール」というアクセントになりますので、許容範囲と考えた次第です。

 定期試験前になると、生徒たちがこの「TFAL」に殺到します。「TFAL」という名称は受け入れ易かったようでホッとしています。私学ならではの教育環境の整備を今後も追求していかねばならないと考えます。

高校教頭ブログ(11/11)

中学3年生「熊野研修旅行」

 私ですが、来週は「中学3年生熊野研修旅行」の引率をします。この熊野研修旅行は今年で10回目、それもコロナ禍にありながら途切れずに続いている宿泊研修行事です。ちなみに、第1回目の熊野研修旅行は、私が学年主任をしていた2013年の11月でした。
 なぜ、藤嶺藤沢が熊野研修旅行を実施しているのかについて、もうご存知の方も多いと思いますが、ここで確認しておきたいと思います。時宗宗祖一遍上人は、13世紀に生きた方ですが、出家をして日本全国を巡りながら修行の旅(遊行)を続けました。文永11年(1274)、36歳であった一遍上人は、四天王寺に詣で、ここから念仏札を配る(賦算)ことを始め、高野山を参詣し、熊野へと向かいました。熊野本宮近くに差しかかった上人は、一人の僧と出会い、念仏札を受け取る受け取らないで悶着がありました。そのことで、念仏勧進の心構えを仰ぐために熊野本宮証誠殿に祈願したところ、夢枕に熊野権現があらわれ、人々に念仏を勧める際の心構えを授かったのです。時宗では、このときを一遍上人が「悟りを開いたとき」としているのです。つまり、時宗にとって熊野は、一遍上人が悟りを開いた地であり、言うなれば「聖地」なのです。したがって、熊野研修旅行は、一遍上人の足跡をたどり、聖地を巡る旅なのです。
 熊野は「呼ばれなければ行かれない場所」と言われるように、今でも行きにくいところであります。だからこそ、熊野の地にたどり着くことには大きな意味があり、古来より「よみがえりの地」と言われてきたのです。
 私も3年ぶりの熊野参詣となります……生まれ変わって帰って来ます!

追伸 「熊野」の「真実」を知りたい方は、『熊野詣 三山信仰と文化』(五来重著/2004年/講談社学術文庫)をお読み下さい。

高校教頭ブログ(10/31)

3年ぶり

 2020年3月以来のコロナ禍により、学校生活はさまざまな制約を受け、特に学校行事への影響は著しいものがありました。「第7波」は「オミクロン株」で、感染力は非常に強いけれども、重症化の度合いは低いために、学校はできるだけ平常へと向かっています。藤嶺藤沢でも、1学期に中高別ではありましたが3年ぶりに体育祭をおこない、8月にはやはり3年ぶりに勉強合宿と海外語学研修を実施、そして、この度は藤嶺祭が3年ぶりにリアル開催となりました。準備の段階から多くの生徒たちが生き生きと活動し、各クラスの工夫を凝らした「映えスポット」は見応えがあり、体育館での各種イベントも大いに盛り上がりました。PTAの皆様にも参加して頂けたことには、大変嬉しく思っております。3年ぶりにおこなわれた各行事とも「やってよかった!」と感じられるものとなりました。

 さて、話は変わります。
 11/4(金)より「後期教育実習」で4名の卒業生が「教育実習生」として本校にやって来ます。当初は5名来る予定でしたが1名が辞退となったため、4名なのです。その辞退した1名は……矢澤宏太君です。日本体育大学は、できる限り教員免許を取るという方針のようで、昨年5月に来校して教育実習の申し込みをしましたが、本年5月に辞退ということになりました。矢澤君は、先日のプロ野球ドラフト会議で1位指名され、その後首都大学野球秋季リーグ戦で日体大を優勝に導き、これから明治神宮大会2022年関東地区代表校を決める「横浜市長杯争奪関東地区大学野球選手権大会2022年」に出場することになっています。また、11月中には日本ハム球団との契約もあることでしょう。矢澤君が教育実習に来たら、生徒の皆さんも盛り上がったでしょうが、やはり「辞退」は正解ということになりました。矢澤君の大学生としての最後の大会が納得のいくものになるよう祈っています。