校長室より

2020年5月 5日 (火)

第二回学校説明会予定変更

5月16日(土)10:00〜12:00に予定しておりました学校説明会は、以下のように変更いたします。

「新型コロナウィルス感染症に対する休校措置における本校の取り組みについて」として、オンラインでの説明会といたします。時間は10:00〜11:00の予定です。

HPからお申し込み頂いた方に、オンラインでの参加の仕方について、メールを送付いたします。

どうぞお申し込みください。

2020年5月 1日 (金)

記事のご紹介

本校の現在の取り組みを「教育ICTリサーチブログ」に紹介していただきました。

また、第二回学校説明会は「体験型授業・行事について」という形で行う予定でしたが、内容を変更し「休校中の本校の取り組みについて」として、オンラインで行います。

2020年4月21日 (火)

Zoomでのホームルーム

現在、小学校ではZoomを利用したホームルームを行っています。

昨今のニュースでは、Zoomに関するセキュリティの弱さ、アカウントの流出や他人の会議室に勝手に入ってきてそこを混乱させる、いわゆるZoomボムなどが報じられています。実際、ニューヨーク市や台湾などでは公式に使用が禁止されました。

それを知っていながら何故、ということです。それは、本校には、その操作に習熟している人がいたからです。これまでも英語科は台湾とのビデオ会議にZoomを利用していました。だから、なのです。

今すべきことは走り出すことだと考えました。舵をとる者がいて、帆を操る者がいれば船は動きます。底に穴が開いているかも…と心配して船を出すことをためらうより、刻々と背後に迫ってくる不安から逃れるには、とにかく船を動かすことが必要だと考えました。

詳しい友人に「待合室」のことを聞きました。パスワードのことも聞きました。最新のアプリにすることなど、必要な備えを教わりました。

この場を逃れて、沖に出たら、代わりの船がたくさん浮いていることも分かっています。Teams,Hangout Meets…そんな備えを行ってもなお、万が一、心配なことが起こったとしたら…でもその時には、どの先生たちもオンライン会議という新しい船の動かし方の基本を身につけているでしょう。その時は、その別の船に乗り換えれば良いだけだ。

13日に、英語科がトライアルとして授業を行いました。

15日、Zoomで行うホームルームの内容を決めました。聖書・お祈り・出席児童の確認・フリートーク。長くても10分程度のものにしましょうと決めました。

15日朝に、それを全体で確認し、翌日からオンラインでのホームルームを各担任が行うことにしました。

今にして思うと先生たちには本当に乱暴で無理なお願いをしたものです。

しかし、3月の終わりには既に、インスタグラムの校長アカウントに「こどもたちがさびしがっています。みんなの顔を見せてください」という投稿がありました。

始めると、案の定、(私だけかも知れませんが…)たくさんの失敗をしました。接続などの問い合わせ用のメールアカウントを作りました。そこに来た問い合わせに対応しながら色々学びました。文字通りの泥縄です。

にも関わらず、全校を一斉に集めてみました。こどもたちがそれぞれで自分のマイクのミュートを解除して話し始めたので(それはそれで癒やされたのですが、少なくとも会の進行上は)混乱しました。

何度も繰り返しているうちに、オリジナルが誰からのものだったのか忘れてしまいましたが、「今は、最速でいちばん失敗した人が優勝っていう時期だから」と何度も口にしました。先生たちに、自分に。

先生たちは本当に頑張っています。慣れないことに一生懸命です。それは、こどもたちの笑顔を見ることですごいパワーがもらえるのだと分かったからです。「励ます者は、励まされる者だ」という言葉を思い出しました。色んなことをどんどん覚えていってます。こどもたちと同じように、学んでいます。

今日は「小学校1年生が、自分でパソコンをスタートさせて、アプリを立ち上げ、パスワードを入力して、Zoomのミーティングルームに入室していました」というメールをいただきました。

こけつまろびつ、膝小僧を擦りむいたりしながら、でもみんな笑っています。進んでいます。

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2020年4月16日 (木)

旧約聖書には…

 山登敬之先生は、精神科のお医者さんです。ずっと以前に私がボランティアスタッフをしているキャンプに「キャンプドクター」という立場で参加してくださって、それ以来、一方的に色々と頼らせてもらっています。

 著作もたくさんあります。最新刊の『わからなくても、こころはある』(日本評論社 Kindle版もあります)は、時にとても専門的な事柄を、私にも分かりやすく説明されていて、最近読んだ本の中では特にお勧めの一冊です。忌野清志郎の歌で言うならば「ぼくの好きなおじさん」(『僕の好きな先生』より)の中のひとりです。

 その方が、フェイスブックにこんなことを書いていました。ご本人のお許しもいただいたので、こちらに紹介させていただきます。

 旧約聖書には、たくさんのわざわい、厄災が記載されている。イナゴの大群が食べ物を全部食べてしまったり、ノアの方舟のような洪水におそわれたり。子どもの頃、クリスチャンである親戚の家で、絵本に描かれたそんな絵を見るのがとても怖かった。

 例えば出エジプト記には、ナイル川が血に変えられるから始まって、雹が降る、家畜に疫病が流行するなどという、10の厄災に見舞われるとか、新約聖書にも、全ての青草が焼けるとか、海の生物が3分の1なくなるとか、人々が太陽の火で焼かれるとか、人々をこらしめる様々な厄災が描かれています。

 山登先生は更にこう続けます。

 今、コロナウィルスとの戦いに勝つとか、そんな言い方がなされているけれど、それは間違った考えじゃないかと。神様の怒りにさらされるような、これは自然災害なのだと。

 そう、これは台風や地震、干ばつなどのような自然災害なのです。ものすごい大型の台風が直撃して(昨夏の19号を思い出しますが)暴風域の中にある時、「この嵐との戦いに勝つ」という言い方、そこで用もないのに出歩くような行為がそぐわないのは簡単に想像がつくことです。

 もちろん、そんな中にあっても、逃げることが出来ずに働いていらっしゃる医療従事者の方々、またどうしても休むことができない生活を維持する仕事に従事する人たちにとっては、これは戦いなのかも知れません。しかし、非戦闘員である私たちは、家の中にいて自らの身を守ることが戦っている彼ら…お医者さん、看護師さん、臨床検査技師さんたち、ごみ処理の人たち、スーパーの店員さん…を支えることになるはずです。

 今、色々な芸能人の人たちもインスタグラムやツイッターなどSNSを利用して自分たちの思いを発信しています。そんな中で女優の杏氏が、娘さんを前に加川良氏の『教訓1』を歌っている動画に心を動かされました。

  命はひとつ人生は1回だから

  命を捨てないようにね

  あわてると つい フラフラと

  お国のためなのと 言われるとね

  青くなって しりごみしなさい

  逃げなさい 隠れなさい 

(上野瞭/加川良 作詞)

 これが戦いであるとしたら、私たちにはこんな反戦歌こそがふさわしいのだと。

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2020年4月15日 (水)

ビートルズと英語

 今と違ってオンライン英会話もなければ、ネイティブの先生がいるわけでもなかった少年時代の話です。どういうきっかけがあったのかは分からないのですが、毎週土曜日の午後、テレビでビートルズの映画を続けて放送していた時期がありました。

 『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(『A Hard Day's Night』の日本題です)『Help!』『レット・イット・ビー』などと一緒に『イエローサブマリン』も放映されました。

 他の映画と違って、『イエローサブマリン』はアニメーションなのです。その中に登場するキャラクターとしてビートルズの四人が登場します。子どもながらに分かりやすかったのか、それまで目にしたことがないような西洋風の(今ならばサイケデリックなという言い方も分かるのですが)画風にとても魅力を感じました。

 親にねだってレコードを買ってもらい、小さい頃から童話のレコードを聞いたりするのに使っていたレコードプレーヤーで聞いていました。好きになった曲は、ギターの軽やかなリズムで始まる『オール・トゥゲザー・ナウ』という曲でした。しかし、不思議なことがありました。

 歌詞が書かれているプリントには、その歌の題名が『All Together Now』と書いてあります。その横にカタカナで「オール・トゥゲザー・ナウ」と書いてあります。英語を習ったことのない当時の私でも、その英語の発音が「オール・トゥゲザー・ナウ」なんだろうという予想はつきました。

その歌の繰り返し部分に何度もAll together now.と書かれています。今でもはっきり覚えているのですが、その部分を何回聞いても「オン・ピ・ゲベナ」としか聞こえないのです。

 なにかの間違いなのかと思いました。歌詞を目でたどりながら、何回も聞きました。

 そうやってどれくらい繰り返し聞いたでしょう。1ヶ月?2ヶ月くらいかも知れません。ある瞬間に、本当にさっきまでは相変わらず「オン・ピゲ・ベナ」としか聞こえなかったのが、「オール・トゥゲザー・ナウ」と聞こえたのです。

 それが私と英語との出会いだったように思います。その出会いから始まりはしましたが、なかなか長い山道が続きます。

 中学生になって「beautiful」という単語が覚えられなくて、明日の単語テストまでになんとか覚えなければいけないと、ノートに何ページも繰り返し「beautiful 、beautiful 、beautiful」と書きました。じゃあ、書いてごらんと横にいた親に言われて、やっぱり書けなくて呆れられたり。

 だから英語は片思い、私は英語が好きなのに、英語が私を好きじゃない。そんなふうに思いながら大学生になるまで、ずっと学校の英語の勉強はしてきました。でも、一度も教室の外で英語を話したことはありませんでした。

 シカゴからやって来た留学生のチューター(バディみたいなものです)になって初めて英語を話したのは、25歳を過ぎていたとか、しかもそれは彼女がシカゴに帰る前日になって初めてだったとか(それまでは1年以上日本語でしか話せませんでした)とか、そんな話はまた別の機会に。

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2020年4月14日 (火)

オンライン授業(トライアル)

 久しぶりにオンラインで児童のみなさんの顔を見ることができました。その後、先生たちと、やはりオンライン上で振り返りをしたのですが、誰もが言葉を揃えて、「元気をもらいました!」と言っていました。みんなもそうでしたよね。友だちの顔、先生たちの顔、その笑顔を目にすることでどれだけ励まされたことか。

 かつてはそれは手紙に書かれた文字だったのかも知れません。電話で声を聞くことで安心したのかも知れません。もっと言えば、そんな連絡手段もない場合には、この世にその人が確かに存在している。ひょっとしたら、たったそれだけのことだけを頼りにして自分自身を励ましていた人もいるのかも知れません。今、私たちが恵まれていると思うのは、ああやって顔を見ながら声を聞くことが出来るということです。

 あなたが誰かの笑顔で励まされたように、あなたの笑顔も誰かを励ましていた。

 今、この特殊な世界の中にあって、私は今 感じている色々なことをしっかり覚えておこうと思っています。

 その中のひとつ、あなたの笑顔が私を励ましてくれていたということ。きっと私の笑顔も誰かを励ましていたのだということ、それはしっかり覚えておかなければならないことだと思っています。私の笑顔が?…これはうぬぼれているということではなくて、おそらく神様への感謝につながっていくような気持ちです。

 時に私は、自分のことを嫌いになってしまうことがあります。なんでこんなことができないんだろうとか、こんなふうでいたいっていう自分と、実際の自分の姿との違いにがっかりしてしまい、落ち込んでしまう。でも、そんな私だってきっと誰かを微笑ませていたのかも知れない。自分を大切にしないということは、他人を大切にしないということだから。なぜなら、こうやって私が「あなたの笑顔に励まされたんだよ」と書いた時、あなたが「そんなことないよ、自分なんてダメな人間なんだよ」と言って、投げやりな気持ちで行動するのを目にしたら、私はとても悲しい思いをするでしょう。

 あんなに励まされたのに。涙が流れるほど嬉しかったのに。

 だから、ひとりひとり、みんな元気でいてくださいね。家にいて、手を洗いましょう。

 最近読んだ記事で驚いたのは、人間が石鹸で手を洗うということを覚えたのは、19世紀に入ってからのことだそうです。それまではお医者さんや看護師さんも、手術を終えた後、手を洗わずに次の手術をしていたんだそうです。

(『新型コロナウイルス後の世界―この嵐もやがて去る。だが、今行なう選択が、長年に及ぶ変化を私たちの生活にもたらしうる』ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳http://web.kawade.co.jp/bungei/3473/ )

 私たちは知識を持っています。技術も持っています。ウィルスは目に見えないから怖いけれど、石鹸で手を洗うことで取り除くことが出来ることを知っています。家にいて、人と距離を取ることで感染を避けられることを知っています。

 そして、ああやって離れていても顔を合わせることが出来る、そしてそのことでパワーを、エネルギーを分け合えるということを知っています。

 また会いましょう。すぐにね。

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 人は空気によって隔てられているけど、空気によってつながっているとも言える…と言ったのは、誰でしたっけ?

2020年4月13日 (月)

『報告』 宮沢賢治について

私はもともと中高で、国語を教えていました。しかし、小学時代から中学生になるまで、詩というのが良く分かりませんでした。教科書の上半分に字が並んでいて、説明文や物語文は読むと意味が分かるのに、詩ははっきり言って、何が言いたいのかよく分かりません。どうして下まで行をつなげていかないのか、宿題として出される作文の字を埋めることに苦労していた私には、なんだかズルいような気までするくらいでした。

今も、「分かる」か、と言われると「私は詩が分かります」なんて言い切る自信はないのですが、ある授業がきっかけになって、それまで持っていた抵抗感、なんか詩ってイヤだなという感じがなくなり、詩が大好きになりました。そんな話をさせてください。

高校3年生の時、国語の授業には、必ず選ばなければならない「現代文」と「古典」の他に、選びたい人はどうぞという「選択授業」というのがありました。ひとつは文学の歴史「文学史」というもので、大学を受験する生徒はその準備のために選んでくださいという説明が書かれていました。

もうひとつは、「現代詩」というものでした。最初に書きました通り、「詩」なんて全然分からないと思っていたので、「教われば分かるようになるかも知れない」と思いましたし、受験の準備のための「文学史」というのが、カリカリ勉強しなければならないような気がして、せっかく選ばなくても良い授業で選ぶならと、「現代詩」の授業を受けることにしました。

最初の授業で先生が配ってくれたプリントに書いてあったのが、タイトルの『報告』という宮沢賢治の詩です。こういう詩です。

さっき火事だと騒ぎましたのは 虹でございました

もう1時間も りんと張って居ります

こういう2行の詩です。やっぱりダメだと思いました。この2行で何が言いたいのかさっぱり分からないと思いました。だから、先生が「この詩からどのような感じを受けるか、メモに書いて今提出してください」と言いながら配ってくれたわら半紙には「何が言いたいのか分かりません」と書きました。

集まったそのメモを先生が読み上げます。すると私と同じように「分からない」と書いている人もいる中で、「なんか慌ててる感じがする」というメモがありました。また、「『ございました』なんていう、すごくマジメな言葉づかいと、大きな虹のキレイな感じが面白い」と言う人もいました。

先生は、「言葉とそのイメージ」と黒板に書きました。「おなかと腹と腹部、みんな同じ場所のことを示す言葉です。でも『おなかが痛い』というのと『腹が痛い』『腹部が痛い』それぞれ感じが違いますよね。ひとつひとつの言葉には、その言葉の持っているイメージがあるんです」と。

…この詩の中の言葉、ひとつひとつのイメージを細かく良く見ていきましょう。

そうやって授業が進んで行きました。

同級生の言葉と、先生の説明とを聞いて、急に目の前が開けたような気になりました。そうか「報告」っていう題名だから、誰かきっとえらい人に報告してるんだ。どこかの村か、ひょっとしたら動物たちの国かも知れません。そこできっと「山火事だ」っていう大騒ぎが起こったのではないでしょうか。最初に誰かのあわてた「火事です!」っていう報告があって、その後で、落ち着いて見上げてみると虹だった。それが1時間も。

「りん」とですから、ぼんやりとした虹じゃなくて、本当にくっきりと大きな虹が、そう「火事だ!」って誰かが間違うくらいの虹ができたんだ。うわぁ、すごい虹だって、みんなが言葉を失って空を見上げている様子が目に浮かびます。

そんな風景がいっぺんに目の前に広がりました。その授業の後から、私は詩を読むのが大好きになりました。あの先生にお会いしたいなぁと、ずっと思っています。

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2020年4月10日 (金)

木登りなど

小学生の頃、近くの公園で木登りをするのが好きでした。横断歩道がある2車線の道路は、小学生にとって大きな川です。その川をひとつ渡ると「東公園」と呼んだり、そこに置いてある遊具から「パンダ公園」と呼んだりしていた公園があります。

そこに大きな…何の木だったでしょう…今、幹や葉の感触を手がかりに調べてみると、どうやらカバの種類の木のような気がするのですが、1m位の高さから、外側に枝を張っている木がありました。

最初の枝は、大人の太ももくらいありました。その枝までの幹の部分には、ちょうど良い感じにコブがあり、そこを足がかりに登ることができました。最初の枝にしがみついて身体を持ち上げると、その上に、またその上と登って行きます。

夏は葉が茂り、下からは自分の姿がきっと見えません。ひんやりとした枝に身を横たえて、公園を見下ろして、このまま昼寝できたら楽しいのにな、なんて思いました。その頃、きっと目にしたハックルベリー・フィンなんかの挿絵、大木の上に小屋を作ってしまうようなスケールの木登りを思い出していたのかも知れません。

目の高さを変えるのは、とても面白いです。

ヨットは、風を受けて進みますが、強い風を受けると、その勢いに煽られて船体が大きく傾いてしまいます。その傾きは推進力にとって大きなロスになりますから、操縦者は大きく身体を外に乗り出して、傾きを抑えます。ヒール、傾きをつぶすなんて言います。汗をかきながら、ロープを握りしめて身体を船の外に乗り出している様子を、テレビのCMなにかで、見たことがあるかも知れません。

少年時代、ヨットに乗せてもらったことがあります。澄み切った青空のもとで、十分に風もあり、教わるままにそうやってヒールを潰していました。波しぶきが顔にかかり、いっぱしの船乗りになったような気分を味わっていました。そんな時、ふと、思いついて、引いているアゴをそのままグイッと伸ばしてみました。身体全体を大きく後ろに反らせて見たわけです。ちょうどブリッジをしているようになりました。すると…今まで空であったところが水面になり、水面であったところが空になりました。空も水面もどちらも抜けるような青で、空の天井近くを走っているような気分になりました。

そう、視点を変えるのは、とても面白いです。

だから山登りをするのかも知れない。そう思いながら、汗でぐっしょりになったTシャツを絞って、尾根で息をつきます。ずっと下に、さっきまでみんなで休憩をしたテント場が見えます。もう豆粒のようになった山小屋の屋根が見えます。

下の写真は台湾大村小學の校庭の大きな木、それから横須賀学院の創立記念に植樹されたクスノキです。

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2020年4月 9日 (木)

ジャスミンの花

家の近くにジャスミンの花が群生しています。夏が近づくと一斉に花開いて、その坂道は馥郁たる甘い、それでいて爽やかな香りに満たされます。いつもはゴールデン・ウイークくらいの頃、遅い年は6月くらいでしょうか。

今日、ふと見上げると、その花が既に開いているのを見つけました。まだ香りをたてるほどではありませんが、もうそんな暖かさなのかとびっくりしました。

実は、恥を忍んで白状しますが、私はその坂道を歩いて香りに包まれるたびに、いい香りだなと思いながら、その花の名前を知りませんでした。そこでふと思い立って、写真を撮り、SNSにアップして「この花の名前を教えて」と聞いたら、ある友人が「ジャスミンじゃね?」とあっさり教えてくれました。

そう言われてみると、中華街などで供されるジャスミンティの香りです。

大好きな詩人、茨木のり子氏の詩にこんな言葉があります。なんでもないひと言なのに、なぜか忘れられません。

    女のひとが花の名前を沢山知っているのなんか

    とてもいいものだよ

    父の古い言葉がゆっくりよぎる

茨木のり子「花の名」より

女の人に限らず、花の名前、植物の名前をたくさん知っているのはとても良いと思います。

森鴎外の娘、作家の森茉莉氏が書いていたのでしょうか。それとも何か別の小説の登場人物のセリフだったのでしょうか、今でははっきり覚えていないのですが。「名前は茉莉…ジャスミンのこと」だと読んだ覚えがあります。娘さんの名前に「ジャスミン」とするなんて、なんて洒落た明治の文豪だろうと思いました。それに「まり」という音も、例えばヨーロッパでも違和感がありません。「父はそんなつもりで私にこの名を付けました」と書いていたのを読んだようにも思います。もしそうだとしたら、森茉莉は「パッパは…」といつものように鴎外のことを書いていたでしょう。

すべての人が母から生まれるように、すべての人には名前があります。どの人も、生まれた時、その名前を一生懸命考えてくれた誰かが居るということは、忘れがちなことですが、忘れてはいけないことだと思います。

自分の名前について、家の人と話をしてみましょう。誰がつけたの?どういう意味なの?

きっと豊かな物語があるはずです。

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2020年4月 8日 (水)

スーパームーン

今夜はスーパームーンです。

昨夜も大きな月を見上げてみました。ご覧になりましたか? 

月の光は本当に不思議です。私が少年時代から参加している野尻湖畔にあるYMCAのキャンプ場には一部を除いて電灯がありません。その明かりも、夜になると消されて、そうなると都会ではあり得ないような暗闇に包まれます。

ですから、夕食後のプログラムに「狸狩り」というのがあります。大学生のリーダーさんたちや、我々社会人のスタッフが「狸」の役になって、キャンプサイトのあちこちに潜みます。それを小学生から高校生までの参加者が、懐中電灯を頼りに、探すのです。茂みに隠れたり、キャンプファイヤーをする場所の椅子の下に隠れたりと、探す方はもちろん、隠れている方もとてもスリリングなプログラムです。

茂みの中に隠れていると、身体のすぐ脇を、少年たちの懐中電灯がかすめることがあります。それでも余程のことがない限り見つからない、それくらいの暗闇でした。

そんなキャンプ場でも、月夜は明るいのです。スーパームーンでなくても、満月の夜であれば、真夜中でも、懐中電灯なしでキャンプサイトを走ることができます。遠くになればなるほど鮮明にくっきりと建物や林の木々の輪郭が見えて、しかし、そんなに明るいのに、手元の本を読もうとするとぼんやりしてしまう。あの不思議な感じ。精神科医の中井久夫氏はそんな風に表現しています。

そんな夜、友人と「影踏みって、こんな晩の遊びなんだね」と話しました。

私たちはあの大きな月に照らされると、誰もが同じような気持ちになり、歩みを止めて見上げる時を持つのではないでしょうか。海を初めて見た時、高い山を見上げた時、どんな時にもその自然の圧力に圧倒され言葉を失ってしまう。その気持ちは、年齢も人種もなにもかも超えて生じる気持ちだと思います。

だとすると、その感情は、環境によって育まれたのでもなく、誰かに教わって覚えたものではないのでしょう。

人にはそんな、美しいものを感じ取る力、大きな超然とした存在に圧倒される心性がDNAレベルで刷り込まれているように思います。その心の動きを大切に守って育てて行かなければいけない。自戒もこめてそんなことを考えました。

今夜そのスーパームーンを見上げてみましょう。なんなら、子どもたちと影踏みでもしてみましょうか。

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