2020年4月17日 (金)

おうちでダンササイズ

 今日の「おうちでダンササイズ」は楽しかったです。私はみなさんの様子を伝えたり、何かのトラブル対応をするという役割でしたから、みなさんと一緒には身体を動かさないで、画面をあちこち見ていました。そこに映るみなさんの楽しそうな姿を見て、思わずニコニコしていました。途中で「校長先生、笑ってる」とETSUさんが言ったのは、そんな私の様子を見たからです。

 身体を動かすのは本当に気持ちが良いものです。楽しんでダンスをしているみなさんを見ていてただけの私も、終わった後、部屋でひとりスクワットをしました。ちょっとやっただけなのに、太ももがパンパンになってきました。私は踊れないので、スクワット。小さい頃から、盆踊りでもフォークダンスでも、みんなと同じようにやっているつもりなのに、どこかぎこちなく、私が踊っているのを見た人は必ず「なんか、ちょっと違う」と不思議そうに見ています。

 小学生の頃、『ザッツ・エンターテイメント』という映画を見ました。アメリカにメトロ・ゴールドウィン・メイヤー、略してMGMという、ミュージカル映画の大手制作会社があります。そこが創立50周年を記念して作った映画です。ライオンがロゴの中央の円から顔を出して吠えているオープニング、見たことがあると思います。

 それまでに作ったたくさんのミュージカル映画の印象的なシーンを集めて、そのシーンにゆかりのある出演者がコメントを入れながら紹介していくという映画です。

 私は、その映画を見てから、ミュージカル映画が大好きになりました。『ウエスト・サイド物語』『メイム』『ジーザス・クライスト・スーパースター』『マイ・フェア・レディ』『サウンド・オブ・ミュージック』『メリー・ポピンズ』『オズの魔法使い』…ミュージカル映画の世界のように、このリアルな世界も、話している最中に急に歌いだしたり、踊りだしたりしたって良いんじゃないか。夢見がちな小・中学生の頃は、教室の窓から外をぼんやり眺めながらそんなことを考えたりしていました。生きるってそんなものであって良いはずだ。あんなふうに踊って歌って生きることが出来たら良いのに。

 『ザッツ・エンタテインメント』はその後も続編が作られ、パート3まであります。そのどれだったのか、もう忘れてしまいましたが、導入部分で、世界中のあちこちの人々の踊り、日本の盆踊りやアフリカの奥地の人々の踊り、現代的なものから古典的なバレエまでが次々と映し出されます。そして「世界中で踊りを踊らない民族はない」というナレーションが入ります。

 そう本当に不思議なことです。音楽が鳴れば、自然に身体が動いてくるし、身体が動けば気持ちも明るくなります。それが人っていう生物なのでしょう。

 

 この週末、音楽をかけて誰も見ていないところで踊ってみます。

Dance_family2




2020年4月16日 (木)

旧約聖書には…

 山登敬之先生は、精神科のお医者さんです。ずっと以前に私がボランティアスタッフをしているキャンプに「キャンプドクター」という立場で参加してくださって、それ以来、一方的に色々と頼らせてもらっています。

 著作もたくさんあります。最新刊の『わからなくても、こころはある』(日本評論社 Kindle版もあります)は、時にとても専門的な事柄を、私にも分かりやすく説明されていて、最近読んだ本の中では特にお勧めの一冊です。忌野清志郎の歌で言うならば「ぼくの好きなおじさん」(『僕の好きな先生』より)の中のひとりです。

 その方が、フェイスブックにこんなことを書いていました。ご本人のお許しもいただいたので、こちらに紹介させていただきます。

 旧約聖書には、たくさんのわざわい、厄災が記載されている。イナゴの大群が食べ物を全部食べてしまったり、ノアの方舟のような洪水におそわれたり。子どもの頃、クリスチャンである親戚の家で、絵本に描かれたそんな絵を見るのがとても怖かった。

 例えば出エジプト記には、ナイル川が血に変えられるから始まって、雹が降る、家畜に疫病が流行するなどという、10の厄災に見舞われるとか、新約聖書にも、全ての青草が焼けるとか、海の生物が3分の1なくなるとか、人々が太陽の火で焼かれるとか、人々をこらしめる様々な厄災が描かれています。

 山登先生は更にこう続けます。

 今、コロナウィルスとの戦いに勝つとか、そんな言い方がなされているけれど、それは間違った考えじゃないかと。神様の怒りにさらされるような、これは自然災害なのだと。

 そう、これは台風や地震、干ばつなどのような自然災害なのです。ものすごい大型の台風が直撃して(昨夏の19号を思い出しますが)暴風域の中にある時、「この嵐との戦いに勝つ」という言い方、そこで用もないのに出歩くような行為がそぐわないのは簡単に想像がつくことです。

 もちろん、そんな中にあっても、逃げることが出来ずに働いていらっしゃる医療従事者の方々、またどうしても休むことができない生活を維持する仕事に従事する人たちにとっては、これは戦いなのかも知れません。しかし、非戦闘員である私たちは、家の中にいて自らの身を守ることが戦っている彼ら…お医者さん、看護師さん、臨床検査技師さんたち、ごみ処理の人たち、スーパーの店員さん…を支えることになるはずです。

 今、色々な芸能人の人たちもインスタグラムやツイッターなどSNSを利用して自分たちの思いを発信しています。そんな中で女優の杏氏が、娘さんを前に加川良氏の『教訓1』を歌っている動画に心を動かされました。

  命はひとつ人生は1回だから

  命を捨てないようにね

  あわてると つい フラフラと

  お国のためなのと 言われるとね

  青くなって しりごみしなさい

  逃げなさい 隠れなさい 

(上野瞭/加川良 作詞)

 これが戦いであるとしたら、私たちにはこんな反戦歌こそがふさわしいのだと。

Book_christianity_holy_bible

2020年4月15日 (水)

ビートルズと英語

 今と違ってオンライン英会話もなければ、ネイティブの先生がいるわけでもなかった少年時代の話です。どういうきっかけがあったのかは分からないのですが、毎週土曜日の午後、テレビでビートルズの映画を続けて放送していた時期がありました。

 『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』(『A Hard Day's Night』の日本題です)『Help!』『レット・イット・ビー』などと一緒に『イエローサブマリン』も放映されました。

 他の映画と違って、『イエローサブマリン』はアニメーションなのです。その中に登場するキャラクターとしてビートルズの四人が登場します。子どもながらに分かりやすかったのか、それまで目にしたことがないような西洋風の(今ならばサイケデリックなという言い方も分かるのですが)画風にとても魅力を感じました。

 親にねだってレコードを買ってもらい、小さい頃から童話のレコードを聞いたりするのに使っていたレコードプレーヤーで聞いていました。好きになった曲は、ギターの軽やかなリズムで始まる『オール・トゥゲザー・ナウ』という曲でした。しかし、不思議なことがありました。

 歌詞が書かれているプリントには、その歌の題名が『All Together Now』と書いてあります。その横にカタカナで「オール・トゥゲザー・ナウ」と書いてあります。英語を習ったことのない当時の私でも、その英語の発音が「オール・トゥゲザー・ナウ」なんだろうという予想はつきました。

その歌の繰り返し部分に何度もAll together now.と書かれています。今でもはっきり覚えているのですが、その部分を何回聞いても「オン・ピ・ゲベナ」としか聞こえないのです。

 なにかの間違いなのかと思いました。歌詞を目でたどりながら、何回も聞きました。

 そうやってどれくらい繰り返し聞いたでしょう。1ヶ月?2ヶ月くらいかも知れません。ある瞬間に、本当にさっきまでは相変わらず「オン・ピゲ・ベナ」としか聞こえなかったのが、「オール・トゥゲザー・ナウ」と聞こえたのです。

 それが私と英語との出会いだったように思います。その出会いから始まりはしましたが、なかなか長い山道が続きます。

 中学生になって「beautiful」という単語が覚えられなくて、明日の単語テストまでになんとか覚えなければいけないと、ノートに何ページも繰り返し「beautiful 、beautiful 、beautiful」と書きました。じゃあ、書いてごらんと横にいた親に言われて、やっぱり書けなくて呆れられたり。

 だから英語は片思い、私は英語が好きなのに、英語が私を好きじゃない。そんなふうに思いながら大学生になるまで、ずっと学校の英語の勉強はしてきました。でも、一度も教室の外で英語を話したことはありませんでした。

 シカゴからやって来た留学生のチューター(バディみたいなものです)になって初めて英語を話したのは、25歳を過ぎていたとか、しかもそれは彼女がシカゴに帰る前日になって初めてだったとか(それまでは1年以上日本語でしか話せませんでした)とか、そんな話はまた別の機会に。

Earphone_music_couple

2020年4月14日 (火)

オンライン授業(トライアル)

 久しぶりにオンラインで児童のみなさんの顔を見ることができました。その後、先生たちと、やはりオンライン上で振り返りをしたのですが、誰もが言葉を揃えて、「元気をもらいました!」と言っていました。みんなもそうでしたよね。友だちの顔、先生たちの顔、その笑顔を目にすることでどれだけ励まされたことか。

 かつてはそれは手紙に書かれた文字だったのかも知れません。電話で声を聞くことで安心したのかも知れません。もっと言えば、そんな連絡手段もない場合には、この世にその人が確かに存在している。ひょっとしたら、たったそれだけのことだけを頼りにして自分自身を励ましていた人もいるのかも知れません。今、私たちが恵まれていると思うのは、ああやって顔を見ながら声を聞くことが出来るということです。

 あなたが誰かの笑顔で励まされたように、あなたの笑顔も誰かを励ましていた。

 今、この特殊な世界の中にあって、私は今 感じている色々なことをしっかり覚えておこうと思っています。

 その中のひとつ、あなたの笑顔が私を励ましてくれていたということ。きっと私の笑顔も誰かを励ましていたのだということ、それはしっかり覚えておかなければならないことだと思っています。私の笑顔が?…これはうぬぼれているということではなくて、おそらく神様への感謝につながっていくような気持ちです。

 時に私は、自分のことを嫌いになってしまうことがあります。なんでこんなことができないんだろうとか、こんなふうでいたいっていう自分と、実際の自分の姿との違いにがっかりしてしまい、落ち込んでしまう。でも、そんな私だってきっと誰かを微笑ませていたのかも知れない。自分を大切にしないということは、他人を大切にしないということだから。なぜなら、こうやって私が「あなたの笑顔に励まされたんだよ」と書いた時、あなたが「そんなことないよ、自分なんてダメな人間なんだよ」と言って、投げやりな気持ちで行動するのを目にしたら、私はとても悲しい思いをするでしょう。

 あんなに励まされたのに。涙が流れるほど嬉しかったのに。

 だから、ひとりひとり、みんな元気でいてくださいね。家にいて、手を洗いましょう。

 最近読んだ記事で驚いたのは、人間が石鹸で手を洗うということを覚えたのは、19世紀に入ってからのことだそうです。それまではお医者さんや看護師さんも、手術を終えた後、手を洗わずに次の手術をしていたんだそうです。

(『新型コロナウイルス後の世界―この嵐もやがて去る。だが、今行なう選択が、長年に及ぶ変化を私たちの生活にもたらしうる』ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳http://web.kawade.co.jp/bungei/3473/ )

 私たちは知識を持っています。技術も持っています。ウィルスは目に見えないから怖いけれど、石鹸で手を洗うことで取り除くことが出来ることを知っています。家にいて、人と距離を取ることで感染を避けられることを知っています。

 そして、ああやって離れていても顔を合わせることが出来る、そしてそのことでパワーを、エネルギーを分け合えるということを知っています。

 また会いましょう。すぐにね。

Bg_ocean_suiheisen_2

 人は空気によって隔てられているけど、空気によってつながっているとも言える…と言ったのは、誰でしたっけ?

2020年4月13日 (月)

『報告』 宮沢賢治について

私はもともと中高で、国語を教えていました。しかし、小学時代から中学生になるまで、詩というのが良く分かりませんでした。教科書の上半分に字が並んでいて、説明文や物語文は読むと意味が分かるのに、詩ははっきり言って、何が言いたいのかよく分かりません。どうして下まで行をつなげていかないのか、宿題として出される作文の字を埋めることに苦労していた私には、なんだかズルいような気までするくらいでした。

今も、「分かる」か、と言われると「私は詩が分かります」なんて言い切る自信はないのですが、ある授業がきっかけになって、それまで持っていた抵抗感、なんか詩ってイヤだなという感じがなくなり、詩が大好きになりました。そんな話をさせてください。

高校3年生の時、国語の授業には、必ず選ばなければならない「現代文」と「古典」の他に、選びたい人はどうぞという「選択授業」というのがありました。ひとつは文学の歴史「文学史」というもので、大学を受験する生徒はその準備のために選んでくださいという説明が書かれていました。

もうひとつは、「現代詩」というものでした。最初に書きました通り、「詩」なんて全然分からないと思っていたので、「教われば分かるようになるかも知れない」と思いましたし、受験の準備のための「文学史」というのが、カリカリ勉強しなければならないような気がして、せっかく選ばなくても良い授業で選ぶならと、「現代詩」の授業を受けることにしました。

最初の授業で先生が配ってくれたプリントに書いてあったのが、タイトルの『報告』という宮沢賢治の詩です。こういう詩です。

さっき火事だと騒ぎましたのは 虹でございました

もう1時間も りんと張って居ります

こういう2行の詩です。やっぱりダメだと思いました。この2行で何が言いたいのかさっぱり分からないと思いました。だから、先生が「この詩からどのような感じを受けるか、メモに書いて今提出してください」と言いながら配ってくれたわら半紙には「何が言いたいのか分かりません」と書きました。

集まったそのメモを先生が読み上げます。すると私と同じように「分からない」と書いている人もいる中で、「なんか慌ててる感じがする」というメモがありました。また、「『ございました』なんていう、すごくマジメな言葉づかいと、大きな虹のキレイな感じが面白い」と言う人もいました。

先生は、「言葉とそのイメージ」と黒板に書きました。「おなかと腹と腹部、みんな同じ場所のことを示す言葉です。でも『おなかが痛い』というのと『腹が痛い』『腹部が痛い』それぞれ感じが違いますよね。ひとつひとつの言葉には、その言葉の持っているイメージがあるんです」と。

…この詩の中の言葉、ひとつひとつのイメージを細かく良く見ていきましょう。

そうやって授業が進んで行きました。

同級生の言葉と、先生の説明とを聞いて、急に目の前が開けたような気になりました。そうか「報告」っていう題名だから、誰かきっとえらい人に報告してるんだ。どこかの村か、ひょっとしたら動物たちの国かも知れません。そこできっと「山火事だ」っていう大騒ぎが起こったのではないでしょうか。最初に誰かのあわてた「火事です!」っていう報告があって、その後で、落ち着いて見上げてみると虹だった。それが1時間も。

「りん」とですから、ぼんやりとした虹じゃなくて、本当にくっきりと大きな虹が、そう「火事だ!」って誰かが間違うくらいの虹ができたんだ。うわぁ、すごい虹だって、みんなが言葉を失って空を見上げている様子が目に浮かびます。

そんな風景がいっぺんに目の前に広がりました。その授業の後から、私は詩を読むのが大好きになりました。あの先生にお会いしたいなぁと、ずっと思っています。

Gahag00664156391_2

2020年4月10日 (金)

木登りなど

小学生の頃、近くの公園で木登りをするのが好きでした。横断歩道がある2車線の道路は、小学生にとって大きな川です。その川をひとつ渡ると「東公園」と呼んだり、そこに置いてある遊具から「パンダ公園」と呼んだりしていた公園があります。

そこに大きな…何の木だったでしょう…今、幹や葉の感触を手がかりに調べてみると、どうやらカバの種類の木のような気がするのですが、1m位の高さから、外側に枝を張っている木がありました。

最初の枝は、大人の太ももくらいありました。その枝までの幹の部分には、ちょうど良い感じにコブがあり、そこを足がかりに登ることができました。最初の枝にしがみついて身体を持ち上げると、その上に、またその上と登って行きます。

夏は葉が茂り、下からは自分の姿がきっと見えません。ひんやりとした枝に身を横たえて、公園を見下ろして、このまま昼寝できたら楽しいのにな、なんて思いました。その頃、きっと目にしたハックルベリー・フィンなんかの挿絵、大木の上に小屋を作ってしまうようなスケールの木登りを思い出していたのかも知れません。

目の高さを変えるのは、とても面白いです。

ヨットは、風を受けて進みますが、強い風を受けると、その勢いに煽られて船体が大きく傾いてしまいます。その傾きは推進力にとって大きなロスになりますから、操縦者は大きく身体を外に乗り出して、傾きを抑えます。ヒール、傾きをつぶすなんて言います。汗をかきながら、ロープを握りしめて身体を船の外に乗り出している様子を、テレビのCMなにかで、見たことがあるかも知れません。

少年時代、ヨットに乗せてもらったことがあります。澄み切った青空のもとで、十分に風もあり、教わるままにそうやってヒールを潰していました。波しぶきが顔にかかり、いっぱしの船乗りになったような気分を味わっていました。そんな時、ふと、思いついて、引いているアゴをそのままグイッと伸ばしてみました。身体全体を大きく後ろに反らせて見たわけです。ちょうどブリッジをしているようになりました。すると…今まで空であったところが水面になり、水面であったところが空になりました。空も水面もどちらも抜けるような青で、空の天井近くを走っているような気分になりました。

そう、視点を変えるのは、とても面白いです。

だから山登りをするのかも知れない。そう思いながら、汗でぐっしょりになったTシャツを絞って、尾根で息をつきます。ずっと下に、さっきまでみんなで休憩をしたテント場が見えます。もう豆粒のようになった山小屋の屋根が見えます。

下の写真は台湾大村小學の校庭の大きな木、それから横須賀学院の創立記念に植樹されたクスノキです。

16562636bb9add1441cb2b58ee59a8a6e58

Img_4058

2020年4月 9日 (木)

ジャスミンの花

家の近くにジャスミンの花が群生しています。夏が近づくと一斉に花開いて、その坂道は馥郁たる甘い、それでいて爽やかな香りに満たされます。いつもはゴールデン・ウイークくらいの頃、遅い年は6月くらいでしょうか。

今日、ふと見上げると、その花が既に開いているのを見つけました。まだ香りをたてるほどではありませんが、もうそんな暖かさなのかとびっくりしました。

実は、恥を忍んで白状しますが、私はその坂道を歩いて香りに包まれるたびに、いい香りだなと思いながら、その花の名前を知りませんでした。そこでふと思い立って、写真を撮り、SNSにアップして「この花の名前を教えて」と聞いたら、ある友人が「ジャスミンじゃね?」とあっさり教えてくれました。

そう言われてみると、中華街などで供されるジャスミンティの香りです。

大好きな詩人、茨木のり子氏の詩にこんな言葉があります。なんでもないひと言なのに、なぜか忘れられません。

    女のひとが花の名前を沢山知っているのなんか

    とてもいいものだよ

    父の古い言葉がゆっくりよぎる

茨木のり子「花の名」より

女の人に限らず、花の名前、植物の名前をたくさん知っているのはとても良いと思います。

森鴎外の娘、作家の森茉莉氏が書いていたのでしょうか。それとも何か別の小説の登場人物のセリフだったのでしょうか、今でははっきり覚えていないのですが。「名前は茉莉…ジャスミンのこと」だと読んだ覚えがあります。娘さんの名前に「ジャスミン」とするなんて、なんて洒落た明治の文豪だろうと思いました。それに「まり」という音も、例えばヨーロッパでも違和感がありません。「父はそんなつもりで私にこの名を付けました」と書いていたのを読んだようにも思います。もしそうだとしたら、森茉莉は「パッパは…」といつものように鴎外のことを書いていたでしょう。

すべての人が母から生まれるように、すべての人には名前があります。どの人も、生まれた時、その名前を一生懸命考えてくれた誰かが居るということは、忘れがちなことですが、忘れてはいけないことだと思います。

自分の名前について、家の人と話をしてみましょう。誰がつけたの?どういう意味なの?

きっと豊かな物語があるはずです。

Img_4140

2020年4月 8日 (水)

スーパームーン

今夜はスーパームーンです。

昨夜も大きな月を見上げてみました。ご覧になりましたか? 

月の光は本当に不思議です。私が少年時代から参加している野尻湖畔にあるYMCAのキャンプ場には一部を除いて電灯がありません。その明かりも、夜になると消されて、そうなると都会ではあり得ないような暗闇に包まれます。

ですから、夕食後のプログラムに「狸狩り」というのがあります。大学生のリーダーさんたちや、我々社会人のスタッフが「狸」の役になって、キャンプサイトのあちこちに潜みます。それを小学生から高校生までの参加者が、懐中電灯を頼りに、探すのです。茂みに隠れたり、キャンプファイヤーをする場所の椅子の下に隠れたりと、探す方はもちろん、隠れている方もとてもスリリングなプログラムです。

茂みの中に隠れていると、身体のすぐ脇を、少年たちの懐中電灯がかすめることがあります。それでも余程のことがない限り見つからない、それくらいの暗闇でした。

そんなキャンプ場でも、月夜は明るいのです。スーパームーンでなくても、満月の夜であれば、真夜中でも、懐中電灯なしでキャンプサイトを走ることができます。遠くになればなるほど鮮明にくっきりと建物や林の木々の輪郭が見えて、しかし、そんなに明るいのに、手元の本を読もうとするとぼんやりしてしまう。あの不思議な感じ。精神科医の中井久夫氏はそんな風に表現しています。

そんな夜、友人と「影踏みって、こんな晩の遊びなんだね」と話しました。

私たちはあの大きな月に照らされると、誰もが同じような気持ちになり、歩みを止めて見上げる時を持つのではないでしょうか。海を初めて見た時、高い山を見上げた時、どんな時にもその自然の圧力に圧倒され言葉を失ってしまう。その気持ちは、年齢も人種もなにもかも超えて生じる気持ちだと思います。

だとすると、その感情は、環境によって育まれたのでもなく、誰かに教わって覚えたものではないのでしょう。

人にはそんな、美しいものを感じ取る力、大きな超然とした存在に圧倒される心性がDNAレベルで刷り込まれているように思います。その心の動きを大切に守って育てて行かなければいけない。自戒もこめてそんなことを考えました。

今夜そのスーパームーンを見上げてみましょう。なんなら、子どもたちと影踏みでもしてみましょうか。

Img_4134

2020年3月18日 (水)

第70回 横須賀学院小学校卒業式

3月17日、36名の卒業生が無事に卒業証書を受け取り、

横須賀学院小学校を卒業しました。

Mat_5377

久しぶりに、友達や先生と顔を合わせた卒業生ですが、誰もが清々しく、晴れ晴れとしたいい顔で登校してくれました。

Mat_5399

全員がそろって、卒業式に参加できたことに、教職員一同がほっとしました。

Yo324_

卒業生は、当日の朝、短い時間でリハーサルを行っただけとは思えないほど、堂々と立派な姿でした。

卒業生の言葉を話してくれた代表の児童のことば、卒業生の歌声に、この6年間の思い、そして、特別な形で卒業式を迎えることになったことへの思いがあふれ、出席した教職員一同が胸を熱くしました。

Img_4045

Img_4219

Img_4240_2

Img_4245

今日の式は、残念ながら保護者の方や在校生に出席していただくことは叶いませんでしたが、必ずこの36名の想いと姿は伝わっていることと思います。

Yo515_

下級生を優しく見守り、かっこいい後姿を見せてくれた6年生へ心からの感謝を伝えたいと思います。

これから進む道も、自分らしく、前を向いて歩んでいってくれることでしょう。

卒業おめでとう!!

Mat_5364

Yo1015_

Mat_5420

Mat_5408

2020年3月11日 (水)

英語科ホームページを利用して

高学年はロイロノートを利用して、休校している子どもたちとのやり取りにも使っています。

低学年向けには、こうやって英語科のホームページに先生たちが動画をアップして、課題の説明などを視聴することができるようにしています。

Photo_2