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高校教頭ブログ(3/17)

桜 さくら サクラ
 梅が盛りを過ぎたと思っていたら、あと1週間で東京は桜の開花を迎える予想が出ています。
 今は「花見」と言うと「桜」のことと思いますが、『万葉集』の時代には「梅」が優勢であったらしいです。『万葉集』に詠まれた梅は110首に対し、桜を詠んだ歌は43首だけとのことです。
 さて、この文がアップされるのは3/17ですが、旧暦で言うと2月(如月)15日にあたります。平安時代末の歌僧である西行法師は『山家集(さんかしゅう/成立年不詳)』に次のような歌を残しています。

 「願わくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」

 西行法師は、晩年伊勢国に数年住まった後、河内国石川郡弘川(現在の大阪府南河内郡河南町弘川)にある弘川寺に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で亡くなりました。かつて詠んだ「願はくは……」は、お釈迦様への思慕の念に満ちており、自分もお釈迦様と同じ2月15日に涅槃に入ることを望んだのです。2月は如月、15日は望月です(今年の望月は16日ですが)。そして、旧暦2月中旬(現在の3月中旬から下旬)の「花のした」とは、「満開の桜の木の下」という意味になります。当時の桜はソメイヨシノではなく、おそらくヤマザクラ(山桜)であったと思われますが、「死」を「桜(が散ること)」に例えたのかもしれません。そして、実際に西行法師は2月16日に亡くなった故、その生きざまが藤原定家(平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人で『新古今和歌集』や『小倉百人一首』を撰じた)や慈円(平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧で、歴史書『愚管抄』を記した)の感動と共感を呼び、当時名声を博したのです。
 また、『一遍上人語録』上巻の『消息法語』には「むかし、空也上人へ、ある人、念仏はいかゝ申すへきやと問ひけれハ、「捨てこそ」とはかりにて、なにとも仰られすと、西行法師の撰集抄に載られたり」とあり、一遍上人の空也上人への強い尊崇の念が表れていると同時に、西行法師への思慕の情も垣間見られます。
 西行法師は「旅の中にある人」と言われますが、日本史上の代表的な「漂泊の人」は、西行法師、一遍上人、松尾芭蕉の3人を挙げる人もいることを書き添えておきます。

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